「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.31 2019.3
8年目の3月11日、3月15日
東日本大震災、福島第一原発核事故から8年。
今年も3月11日、15日がめぐってきました。
この8年の間、変わったこと、変わらないこと、そして、しんどさが増していることなど・・・
福島から距離的に離れれば離れる程、何だか原発事故に関しては忘れ去られるだけでなく、あたかも「そんなことがあったのね」日常的にはそんなことなかったかのような空気が漂っているように感じられます。
そんな中、古都鎌倉では2011年4月11日に諸宗教による追悼慰霊、祈りの集いが2012年からは3月11日に途切れることなく続けられて来ています。2011年4月11日の第1回は鎌倉鶴岡八幡宮で開催されました。
そのときの印象は今でも鮮明に心身にしみ込んでいます。八幡宮の舞殿に各宗派の宗教者代表が昇りそれぞれの祈りを捧げたのです。神主さん、僧侶、カトリック司祭、プロテスタント牧師と。鎌倉在住のそれぞれの宗派の僧侶の方々がご一緒に〈般若心経〉を読経され、これに参加者が唱和した、あの肚に響き渡る読経が今でも身体に木霊しています。その後、宗教毎にグループをつくり由比ケ浜まで祈りのラリーをして、浜にも祭壇を設けて海に向って、それぞれの宗教が祈ったこと。浜での祈りの最中に、突然、参加者の携帯にけたたましく「ヒューー、ヒューー」と警報がはいったのです。同時に砂浜が揺れました。大きな地震でした。一瞬騒然としましたが津波がないことを確認し、祈りが続けられました。この体験は、3月11日の大震災の1か月後であっただけに、強烈な印象として私のうちに生きています。
『東日本大震災 追善供養 復興祈願祭
「趣意書」
鶴岡八幡宮 宮司 吉田 茂穂
鎌倉市仏教会会長 覚園寺 仲田 昌弘
キリスト教諸教会 司祭 山口 道孝
3月11日の東日本大震災は、我が国にとって正に未曾有の大災害となりました。多くの尊い命が失われた上、大津波、加えて原子力発電所
の事故により避難を余儀なくされた被災者の方々は、現在数十万人にも及んでおり、日本は大変な国難に直面しています。
かつて、鎌倉に幕府がおかれていた時代、国難に際して社寺がまとまり、乗り越えるための御祈願が執り行われておりました。いま、歴史を経てふたたび、神道、仏教、キリスト教の宗旨・宗派を超えて合同祈願を執り行うことに致しました。
この大地震のちょうど一年前、鶴岡八幡宮の御神木、樹齢1000年の大銀杏が突然倒伏しました。大変悲しい出来事でしたが、日本全国からの励ましの声と共に、今は残された根元から多くの新芽が未来に向かって力強く成長を続けています。
犠牲者を哀悼し、日常生活を奪われている被災者の皆様に思いを寄せ、鎌倉中の宗教者たちが心を一つに祈りを捧げ、被災地のみならず、日本中に「復興の芽」が力強く育つことを切に願っております。お時間の許す限りご参列下されば幸いです。
鶴岡八幡宮舞殿での祈願祭終了後、建長寺や円覚寺などの修行僧やキリスト教会の神父、牧師、シスターが、義援金の寄付を呼びかけながら、小町通りと若宮大路を歩き、由比ガ浜に向かった。集まった義援金は、東日本大震災追善供養復興祈願祭参加者一同として日本赤十字社に寄付された。』
『舞殿での祈願祭には約1万人の市民も参列し、舞殿前に設けられた焼香台で焼香した。舞殿では海が穏やかになることを祈願して「浦安の舞」が奉納された。』
(鎌倉で3宗教合同の復興祈願祭—東日本大震災⑰より)
今年はカトリック雪ノ下教会で開催されました。(www.praykamakura.org鎌倉宗教者会議で見ることができます。)
『いのちの光3・15』
3月15日に原町教会で大震災、原発事故(核事故)8年目の追悼ミサ、講演会が開催されました。久しぶりに常磐線で福島まで行きました。まだ全線開通していませんので、一部代行バスで6号線を走りました。6号線大熊町、双葉町、第一原発が近づくにつれ、バスの中での線量計の数値は一寸意外な程にあがってきました。6号線を車で走れるようになった直後以外は、あまり驚かなかった数値ですが、今回ばかりは、正直何がおこっているのかしら?と様々な想像が頭の中を駆け巡りました。代行バスに乗ると車掌さんからは、「帰還困難区域を通りますので、窓は決して明けないでください」との注意事項もありました。6号線を通る時には窓を開けてはいけないことは今までとかわりません。が、働いている人はいるのです。
同慶寺のご住職、田中徳雲さんの講演からいろいろなことを学びました。時間が短く充分に語り尽くされなかったことは残念でしたが「『原発事故後の福島で生きる』〜7世代先の子どもたちのために〜」と言う小冊子をくださり、そこから更に何をしたらいいのか、ビジョンをもらえました。同慶寺は、相馬藩の菩提寺であり、相馬藩は源頼朝から領地をうけています。
『一番最初の祖先は、平安時代の相馬小次郎将門。あなたがたは平将門(たいらのまさかど)というけれど、将門は相馬の姓を名乗っていたんですよ。』『有名な「相馬野馬追(のまおい)」は1千年以上続いている行事だけれど、もともとは将門が始めた軍事演習でした。江戸時代も神事として続けられ、明治以降は相馬家が東京へ移ってしまったから、当主不在で行われてきた。』『第2次大戦の最後の年、相馬野馬追は中止のはずでした。でも、その人は先祖代々ずっと続けている伝統を途絶えさせるわけにいかないと思い、一人でも決行しようと鎧(よろい)を着て、家族に別れを告げ、神社へ向かった。すると、大勢の人が同じ思いで集まっていたそうです。米軍の飛行機が飛んでいる中、決死の 覚悟で行われた相馬野馬追――。命がけで1千年以上の伝統を守ってきた、という話でした。相馬野馬追は、彼らの魂であり、宗教のようなものだとわかりました。』(相馬家33代当主の話し)
16日は仙台教会で小児科、精神科医の北川恵以子さんの講演会でした。北川さんは原発事故後毎月福島に通い、子どもたちの健康(心身)の相談を受けて来られ、その経験からお話しくださいました。
2月の末には「正義と平和協議会全国担当者会議」も行なわれなした。
2月の脱原発グループでの話し、15日の田中徳雲僧侶の話し、そして北川さんの話しにきせずして同じ提案がなされたことが大きなインパクトでした。共通してはなされたことは、「保養」でした。「原発事故後を生きる人々」にとって保養がどれほど大切であり、必要なことかが理解できました。どのような保養であれば、子どもたちにとって生きる力をつけていくものになるのかと、具体的にはご住職の生き方、そして活動の紹介から大きな示唆が与えられました。ご住職自身の保養に行かれた体験の分かち合いも説得力がありました。
「自分はどう生きていくかを問われている。それが、今回の福島の事故。それに尽きる」「国の政策は・・・もっと闇になって行くよう。8年経っても。・・・明けない夜はないから必ず朝がくる。私たち自身が光になって行く。光を求めていました。それでもいいのかもしれないけど、自らが光になって行くということ。その為に現実の生活と求める生活とをどういうふうに擦り合わせて行くかという、今そういう段階。強いていうなら、芋虫から蝶になる。地球を食いつぶしてしまう芋虫から蝶になる。蜜を吸い、受粉を助けて行く蝶になる。今はさなぎの時期。日常のできることからしていく。蝶々が飛ぶ練習のとき、飛ぶためには沢山持っていたら飛べない・・・手放していくことが大切」(田中徳雲住職のはなし)ご住職が話された保養は、福島のひとたちだけに必要なのではなく、病んでいる日本社会に生活している子供たち、大人たち皆に、日本だけでなく、痛めつけられている地球の家にすんでいる人々皆に必要な、本当の人となるため、人を取り戻すための保養なのだと納得しました。