「いぶき宿通信」N0.25

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.25 2018.4 

東日本第震災、核事故から7年
3月14日、常磐線を乗り継いで原町まで行きました。今回はじめて富岡駅まで電車で行くことが出来ました。波に流され、慰霊碑が置かれた駅はすっかり様相を変え、津波、核事故の痕跡は一見、見えなくなっていました。

富岡駅ホーム 富岡駅にて

富岡駅外 富岡駅の外は、まだ工事中。

浪江駅に降りたのもはじめてでした。

浪江駅①浪江代行バス

(富岡駅と浪江駅の間が代行バスで、もうすぐ全線が繋がるようです。)

浪江駅舎のタイル

(浪江駅舎の外壁タイルに描かれた馬/相馬焼き?)

富岡町も浪江町も駅に電車は来ていますが、まだ町に人気が感じられませんでした。富岡の駅前にはホテルも建っていました。
原町教会での追悼ミサ、集会の帰りでの電車での帰り道は複雑な思いでした。

第5回いのちの光3・15フクシマ
フクシマが背負ってきたもの
伝え続けるもの

3月15日が今年もめぐってきました。あれから7年、その間、福島は「フクシマ」を背負ってきました。そして、これからも背負い続けていかなければなりません。
福島から距離的に離れている関東圏の人々の意識は3月12日から15日にかけての運命の日を過去のもの、福島での出来事として意識が希薄になって来ているように思われます。目に見える復興の蔭に隠れている現実を想像する力、知ろうとする努力には大きな個人差を感じるこのごろです。
「フクシマ」を背負い続けていくのは福島だけではなく、私たちだと思います。私たちが現実として背負い続け、問い続けなければならない自分事の筈ですが、なぜか「福島は・・・」と言ってしまいます。そこには何か他人事のような印象が拭いきれません。
ミサ後には「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」の原告団長菅野秀一さんが思いを語られ、いちえふ(IF)周辺環境放射線モニタリングプロジェクト共同代表の青木正巳さんが話されました。モニタリングをされている中での話しで、一端放射線量が低下したところでも、枯れ葉が落ちて堆肥になって行くとまた放射線量が高くなる、事故後7年経った今は放射能の汚染源は『土』だとの話しがありました。土壌汚染測定器をもって実際の土を測り、放射線量により変化する音を実際に耳にすることで、見えないものの存在を感じることが出来ました。

ガイガーカウンターで

と同時に、低線量による外部被曝がどのような結果をもたらすのかは未知であること、7年前のあの核事故がもたらした結果は人類にとってはじめての経験で、全てが未知である中での生活であることに非常に難しい問題を感じました。それぞれの人が事実を知り、その中で選びとった生き方を尊重することの大切さをあらためて痛感しました。選びとった中で、未知の世界の中でどのようにして放射線被曝を少なくするかを十分に心して生活を営む以外に今のところ手立てはないように思われました。科学的な根拠を発言される学者さんたちの意見に大きな開きがあることで、私のような全くの素人は未だに「何を信じてよいのか!?」と思うのです。だからこそ、それぞれの人の決断を大事にしていきたいのです。
風評被害についての質問が出た時の答えは、
「風評ではない。実際に放射線量が出ているのだから」でした。その時に思い出したのは、「えすぺり」大河原多津子さん(私たちと共同プロジェクトをしている有機農業者)の「自分たちが丹誠込めて作った野菜を買ってもらう為には、それぞれの野菜の放射線量を測って数値を公表し、それを納得して購入してもらえる人と繋がりたい。その数値では購入できないと思われる人のことも尊重したい。」「勿論自然界にも放射能はあるので、福島の野菜でなくても測れば放射線量は数値として表れるのですが・・・いずれも放射線としては同じものであっても、それぞれの人の思いと感じ方は違い、状況も違うので。それぞれの人の選びにおまかせしたい。」との言葉でした。これが現実で、私たちが背負っていく問題の一つだと思います。もとに戻すことの出来ない事故による結果がこれ以上分断をもたらすことなく、一人一人を大切にする生き方になるように、正確な科学的な分析、研究、知識の情報が正しく伝えられること、智恵が育つ社会となること事を願ってなりません。

江古田映画祭
3・11を忘れない

ドキュメンタリー映画「原発の街を追われて~避難民・双葉町の記録」3部作(監督・堀切さとみ)を観ました。避難されているひとたちの6年間の記録です。「警戒区域のひとたち、「自主避難者」といわれる人たちが避難生活を生き抜く頑張りを支えるのは、私たちがどれだけその人たちのことを想像できるかだと思う」との監督の言葉は説得力があります。
映画の中に7年前に騎西高校に避難された双葉町の書家・渡部翠峰さんが出てきます。最初は美術室で90歳の実母と暮らし、別の教室には妻と義母もいらしたのです。避難した年の8月に、騎西高校の視聴覚室で書道教室を開き、避難生活の中で今までの生活を続け、書道を通して避難者にも生きる意欲をきり拓いていかれる姿、どんな場所にいても自分の生き方を貫こうとされる翠峰先生の姿は「生」の芸術そのものに見えました。畳一枚のスペースがあれば十分といって、3・11後に出会った人を書道の虜にし、この7年で3人目の師範を育てられる姿に感動しました。
この映画祭で、「水俣—患者さんとその世界—」も観ました。環境問題の原点とも言われ、不知火海に36年間も流され続けた有機水銀が原因で水俣病を発症した苦難の歩み。世界に水俣病を知らせることになった記念碑的な名作記録映画、2時間の上映時間があっという間に過ぎました。プロローグの水俣病隠しの話し「魚が売れなくなるから隠し抜いてくれ、代わりに市が“死”を買い取るから」
「腐れて体中の皮が全部はがれた」「嫁ぐ前の娘の死後解剖により脳が、蛸のイボの大きさで黒く焼けこげ脱落していた」との話しなど、死者たちの思い出、遺された肉親の記憶の中にしまわれていた事実が明るみに出されていく、「国とは何ちゅうところか」ともだえる病人に余りの衝撃を受け、会場の呼吸の流れがストップしたようでした。
原発(核)事故による被災者救済サポートのあり方を示唆されたようでした。

3月が近づくと、毎年、東日本大震災・福島第一原発(核)事故のことがずっしりと心に沈んできます。
忘れないことの大切さを今年もあらためて思いました。自分事として。

(野上幸恵 記)