「いぶき宿」通信 2016 No.1(2016.4)

熊本、九州に大きなダメージを与えている大地震、それでも川内原発を稼働させ続けていることに大きな不安を抱えています。避難生活を送られている人々の痛みを抱えながら、何らかの希望の灯火を届けられることを祈っています。

4月15日(金)16日(土)にかけて、福島へ視察旅行でした。
「いわき」まで常磐線で行き、その先はレンタカーでの移動。今回は6号線を北に上ることはあきらめました。「いわき」から常磐高速道路を利用して一気に 「富岡IC」まで行きました。高速道路に設置されている線量の電光掲示板は広野から相馬までの線量を“0.1〜4.1μSv/hと表示していました。6号 線が開通してすぐにそこ を走り、福島第一原発の付近を通ったときの線量とは比較にはなりませんが・・・

高速道路の高見から下に見えるフレ コンバック(汚染物質を入れたある黒い袋)の海に、はじめて見た人はびっくりされていました。テレビではよく目にする光景、情報としては氾濫するくらいに 流されていることが、実際に見ることによって自らの中に現実のものとして体得されるのだということをあらためて知りました。

富岡駅前に行くために富岡のICをおりてからは町中を通ることになります。その道中にもフレコンバックは今もつまれ続けています。
トラックの往来の多さに驚きました。

道路のすぐ脇の積み上げられて行くフレコンバック

道路のすぐ脇の積み上げられて行くフレコンバック

富岡駅前に行く手前で震災遺構として残された、住民の避難誘導をしながら殉職した二人の警察官が乗っていたパトカーの傍で心の中で手をあわせ、5年経った今も脇の川にはまだ流され壊れたそのままの車に心を痛めました。

2016-1-02

富岡駅前にさしかかり、「えっ!何で海が見えるの?」とあたりの景色の変化よりも海が見えることにびっくり。あの日を境にフレコンバックが積み上げられ、壊れた家屋がそのままだったので、駅への道から海は見えなくなっていたのですが、フレコンバックの向こうに「海」が!
「あっ、周りの家や壊れた車がなにもない!」

2016-1-03

「慰霊碑もなくなっている!!!」
「線量計もない!」「うっそ〜〜〜!」と自らの目を疑ってしまった一瞬でした。
数ヶ月前に来た時に、「あの家、除染してるのかしら?直してるのかしら?」「帰って来られるつもりなんでしょうか」と想像していた、立派な大きな家はそのままポツンとそこにありました。

慰霊碑もなくなり・・・

慰霊碑もなくなり・・・

ポツンと一軒

ポツンと一軒

すっ かり様相を変えた富岡駅前を通り、一路、都路へ向う予定でした。普通ならば「大熊町」を通って都路に入るのですが、「大熊町」は帰還困難区域、立ち入り禁 止区域のために、通ることができず、楢葉町、川内村経由で都路の「ファームハウス」古民家のペンションを訪ねて、都会から移住されて生活をはじめられた経 緯、地元に根付いて行く過程などについてお話を伺いました。宿泊客には近隣のおいしい野菜、地場の食材たっぷりの食事が提供されます。田村市は「ご当地グ ルメプロジェクト」を立ち上げていて、その中に『たむら八彩カレー』があり、野菜など地元産の食材を8種類(内野菜5種類)以上を使うべしという掟に則っ ての食事を提供する店がいくつもあります。ファームハウス都路も其の中の一つです。

2016-1-06

都路をあとに三春町の「三春の里生活館」に、道中、桜、桜、桜・・・
はじめて夜桜の「滝桜」を観賞。「いのち」の力強さ、「いのち」の迫力、気魄にみちた滝桜は圧巻でした。

2016-1-07

今回は朝早く滝桜以外の美しい桜を観賞しました。其の中の一つに「忠七桜」がありました。
この桜は戊辰戦争時に官軍の荷運びに懲役された宗像忠七翁が会津の惨状を目のあたりにして、会津の人々の霊を慰めるために自宅前に植えてあった桜などを移植したものとのこと。たまたま5代目当主にお会いし御案内いただきました。

五代目当主ご夫妻と銀閣寺から来訪し生けられた忠七桜・・・

五代目当主ご夫妻と銀閣寺から来訪し生けられた忠七桜・・・

「えすぺり」では大河原さんとの久しぶりの再会を喜び、今年度の活動について話し合い、歩みを具体化しました。もう「金糸かぼちゃ」の種は植えてくださっていました。感謝です。
そして、今回「たばこ」がどれほど農薬漬けになっているかという恐ろしい話しを伺いました。
これはまたの機会に・・・

多津子さんが準備してくださった昼食、「わっ、ごはんがおいし〜〜〜い!」が私たち全員の反応でした。3・5・8(塩米糀)の使い方を習い早速購入して帰ってから習ったことを実践。



昨年度は本当にありがとうございました。
今年度もどうぞ宜しくお願い致します。
野上幸恵 記


「いぶき宿」通信 No.9(2016.4)

2016年3月11日東日本大震災・大津波から丸5年、それを引き金としての3月12日福島第一原発核事故から丸5年。

2011年夏から岩手県大船渡での支援活動を続けていたことから、毎年3月11日は大船渡教会でのミサに参加しています。

今年も1時半からのミサに参加しました。

その1週間前に当初から関わりのあったUさんが神さまのもとに帰られました。もう1週間待っていてくださったらお会いできたのに!と残念でした。でも、お訪ねしてお線香を上げることができたのは本当に幸いでした。

高齢の奥様と息子さんがご遺骨を安置してある祭壇に案内してくださいました。
仮設から復興住宅に引っ越されたということは耳にしていました。復興住宅に移られて半年だったそうです。

9-01

Uさんに関してはたくさんの想い出があります。
心臓の大手術後、退院して1時間後の大地震、幸に息子さんが一緒だったので避難ができたのです。が、避難所での厳しい寒さの中での生活。多くの人に支えら れたと言っておられたのを覚えています。その中でも、「ずっと死ぬことしか考えていなかった」「死に場所を求めてさまよっていてパトカーで家まで送られ た」などなど、生きる意欲も意味も見出せずに苦しんでおられた姿です。そんな時につくってもらい始めたのが、あの素敵な「ふくろうのストラップ」でした。 ベットの上で一つ一つ丁寧に仕上げておられたお姿が彷彿とします。奥様とお二人でつくり続けておられた「ふくろうのストラップが遺品となってしまいまし た。

今回はじめて新花巻、釜石そして釜石から「三陸リアス線」で盛(大船渡)にはいりました。
リアス線沿線の風景も懐かしかったです。
吉浜は前の大津波の時に、全村高台に移設した村でした。反対も多かった中での村長の決断での全村高台移設でした。そのおかげで今回の大震災・大津波では被災者が一人も出なかった村でした。海辺は破壊され、5年後の今も復興中でした。

9-02

越喜来小学校の跡には何度も足を運びました。
また、多数の犠牲者がでた「越喜来の高齢者施設」では、突然波に攫われた高齢者が「来てください」と頼んでおられるようで、引かれるようにたびたび慰霊碑の前で祈りをささげた場所です。その場所は綺麗に、跡形もなく整理されていました。複雑な思いでした。

9-03

越喜来小が建っていた付近

帰りは大船渡、陸前高田、気仙沼を通って一関に出ました。
大船渡、陸前高田の差にはあらためて驚愕しました。大船渡では2時46分に海に向って手を合わせました。

9-04

大船渡教会から海に向って

大船渡湾の湾口には湾口防波堤がつくられていました。湾口防波堤に関してもいろいろと意見の分かれるところだったのです。
あの日に海のヘドロが全て津波で底を攫われて陸にあげられたのです。その後、大船渡湾は綺麗になったのですが、この高く建てられた湾口防波堤は大船渡湾をどのようにかえていくのでしょうか。

大船渡湾沖の湾口防波堤

大船渡湾沖の湾口防波堤

陸前高田では嵩上げの高さ、その盛り土の強度に不安を感じました。

9-06

盛り土、大丈夫?

盛り土、大丈夫?

9-08

奇跡の一本松の周りの景色のあまりもの変化に言葉を失うようでした。大自然豊かな海辺の松林がなくなっただけでなく、海が見えない程に堤防がそびえ、一本松の傍にベルトコンベアー、勿論いづれこのベルトコンベアーは外されるでしょうけれども・・・
海が見えないほどの堤防で波を防ぐのかもしれませんが、川の流れは町中を、一本松の傍を走っています。川を津波はかけのぼり、人々を、町を、自然を飲み込んではいかないのでしょうか、あの日のように???

気仙沼の港にさしかかると、景色が一変。

9-09

漁船がところ狭しとひしめき合うように繋留していました。何か、ホットしました。
(野上幸恵 記)