「いぶき宿通信」32

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.32 2019.7 

福島ミニバズツアー

2019年度に入り、4月からさまざまな学びの機会に恵まれています。
さくら咲く、三春の里:梅、桃、桜、春一色
三つの春が一度にやってくる三春
今年は春の満開をちょっと過ぎてから三春への旅となりました。4月25日26日と福島の現状を目のあたりに肌で感じる旅に出たのは、中学高校の同級生と同窓生など11人。
それでも「えすぺり」、大河原さんの自宅庭には桜が満開でした。

大河原桜人形劇

現場で「人形劇」を観劇した感想は、「やっぱり、現場で観るのは、東京で観るのとはちがう。
ずっとよかった!」でした。現場に立つことによる場の持つ力が語りかけてくるのだとあらためて感じました。
湯本の「古滝屋」さんに宿泊。あれから8年、湯宿での食事提供が困難な時期にあった「古滝屋」さんも夕食・朝食の提供が11月から始められていました。嬉しかったです。
次の日は、浜通を訪ねました。請け戸小学校の周りは一面除染土を詰めたフレコンバックが敷き詰められていました。何とも不気味な景色でした。道中、ここに他所から運び込むフレコンバックを積んだトラックにすれ違ったり、その後ろについたりして・・・『あ、放射能に汚染された地域にいるのだ』との実感が。トラックの運転手さんたちのことが気になりました。

請戸中間貯蔵ペースカー

富岡の警察前には昨年暮れに完成した「廃炉資料館」ができていました。
Jビレッジは見事な設備に大変身していました。
あの駐車場と前線基地だった頃の建物の姿が嘘のように。福島第一原発、第二原発への送迎バスが労働者を乗せて発着していたその場には、練習に来た小学生のサッカー少年たちを送迎するバスが。売店にはサッカーにちなんだお土産、サッカーグッズが売られていました。
請け戸の除染土フレコンバックの海原とはあまりの格差です。
ロータリーの芝生の上をロボットが行き来していました。何をしているのか?

Jビレッジロボットの芝刈り

楢葉には、『道の駅ならは』が前日にオープンしていました。
南相馬カリタス原町ベースで、復興食堂で注文したお弁当で昼食をしながら、スタッフのシスターから少しお話を伺いました。幼稚園では園児が増えているそうです。
浪江の『希望の牧場』では、たまたま吉澤さんが牛さんたちにキャベツをやっておられ、先日東京でのお話に参加していた人もいて、ご挨拶ができよかったです。

抗議の牛

東北高速道を北上し、磐越道を東に走り、国道6号線を北上、常磐高速道を南下して、福島県をほぼ1/4廻ってきました。
箱ものの復興が目立つ中で、人の少なさが、町のしずけさ・・・ひっそりさ・・・いぶきのなさが・・・妙に重たさに押しつぶされそうで、もの悲しい、うら寂しい、何とも複雑な感覚に襲われました。

 
『最後の一滴まで』
ヨーロッパの隠された水戦争
雪ノ下教会で5月4日ドキュメンタリー『最後の一滴まで』の鑑賞でした。「水道サービスは誰が担うべきなのか?」そして「水は商品なのか、人権なのか?」と問われています。
日本では2018年12月12日に水道法が「改正」されました。
世界では民営化によって生じた水問題に対して再度公営化される中で、日本では公営であった水道事業が民営化されました。逆行している日本の問題をあらためて突きつけられました。

水戦争

 

種子法廃止とタネの未来印鑰智哉さん講演
雪ノ下教会6月1日
化学肥料により土の力が失われ、土が死滅していった地球のいのちの源である土の話し。1cmの土ができるのに100年の年月を要するという話しは、除染が成される時によく聞いた話です。農業と無関係だった化学企業が農業に参入し、化学肥料・農薬をつくり、これらの企業が農業生産の在り方を支配していると。ここに種子、化学肥料、農薬の三点セットでの工業型農業が出来上がったのです。化学企業の爆弾をつくる工程がそのまま化学肥料製造に使い回されているとのこと。1996年以降は「緑の革命」遺伝子組み換え農業が始まり、戦争企業が遺伝子組み換えに参入して来たのです。
世界の4社が世界のタネの7割を独占し、そのタネは遺伝子組み換えであるという空恐ろしい実情。世界の種子市場の約7割弱、農薬の8割弱が6つの遺伝子組み換え企業が握っているという現実を学び、恐ろしくなりました。
日本では2018年4月に主要農作物種子法は廃止されました。農業ひいては「いのち」がどのようになっていくのか不安です。
飯舘村、同慶寺(相馬藩の菩提寺)、広野のバナナ、広野の綿花栽培などなど。

 

ショックだった飯館村の現状
ドキュメンタリー映画「飯舘村の母ちゃんたち、土とともに」の古居監督と一緒に、「飯舘村の母ちゃんたち」菅野栄子さん、よし子さん、そして長谷川花子さんを訪ねました。花子さんには、飯舘村を案内してもらい、忌憚のない現状を聞かせてもらいました。遠く神奈川で想像していることとのギャップ、現地に足を運び現実に触れてみないと分らないことが・・・
帰還された人たちが今、どのように前を向いて進んで行っていいのか・・・力が削がれ、見えない将来に戸惑っておられることがひしひしと伝わってきました。それでも、なんとか前を向きたいと自らを鼓舞しようとの努力が痛々しく感じられました。かける言葉を失いました。
箱ものは素晴らしく、次々と、今、これが必要なのかどうか疑われるような立派な箱もの、像などが・・・これからのメンテナンスはどうするのでしょうと。
帰還している人は???飯舘村に住民届けを出して一応は帰還のような状態になってはいても、実際には形だけの住民で夜家の電気はついていない所も。

飯館道の駅    幼稚園

(飯舘村道の駅)          (幼稚園)

聖歌ランアーの走る12号   家の前のフレコンバック

(聖火ランナーの走る     (家の前にはフレコンバック
国道12号線沿いは整備され     が囲いの中で、もぞもぞ
フレコンバックはないが)         と放射性物質を・・・)

原発事故後の人々の苦しみに寄り添っていた市の職員、当時、福島第二原発の厳しい状況の中で最悪のシナリオをくい止めていた人、被災者の僧侶として、いま自らの地元で人々のため、地域のために知恵を出し、甘くない現実の中で、日夜、奮闘され続けている姿に希望をみました。

                                        野上


「いぶき宿通信」33

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.33① 2019.9 

第一部
南の方での豪雨災害に心を痛めながら、今年は自然が本当に号涙しているかのごとく止むことのない水害に失われた日常を心に留めながら、横浜教区の5つの教会の信徒20人で福島への旅にでました。
9月2日から4日までの2泊3日の巡礼の旅でした。核事故によって失われたおだやかな日常、の悲嘆のなかにも、土とともにいのちとともに、日常を復活されようとしておられる人々に出会う旅でした。バスの乗車とともに祈りに始まり、バスから降りる前の祈りに終わる、本当に巡礼でした。
「放浪は目的なくさまよい歩くこと。巡礼は目的を持って踏みしめて歩むこと」との小笠原神父様の言葉を今も噛みしめています。

常磐道
常磐道を北に向って走りながら、景色の移り変わりがそこで生活している人々の日常をも変えるのだと感じました。
常磐道で、今までとは異なった情景に身を置くことになりました。ペースカーとかいた幕をトラックの運転台の後ろに貼付けて走っているフレコンバック運搬トラックの列。震災の年の夏の光景が重なりました。あの時はフレコンバックのトラックではなく、自衛隊のトラックの行列。パーキングエリアで一緒になった隊員に話しかけていろいろ聞いたことが昨日のように思い出されました。これらのトラックの間に挟まれての走行に複雑な思いを持ちました。いわきナンバーでしたが、いわきより南から走ってきました。北関東からなのでしょうか?どこから来てどこへ?

除染トラック

飯館村
飯館村に入り、「までい館」の前で長谷川花子さ

んにご同乗いただき、まずは昼食。原発立地の南相馬市に合併することなく、美しい自然と「までい」な生活を営む理想をかかげて、まさしく理想的な村づくりがなされていた村です。
避難解除とともに帰村が勧められ、村をこよなく愛する人、ともに生きて来た土を愛でている人々が村に戻り復活を夢みておられましたが、現実はそれはそれは厳しいものでした。真っ暗闇のトンネルの中で、希望を繋ぐことは至難の業であると痛感しました。そんな中で、土のいのちを保つために蕎麦づくりをはじめられ、「までい」に準備された手打ち蕎麦、昼食の一品一品が、暖かいいのちを届けてくれるようでした。
本当に美味しかったです。体調を崩されている店主さんが酸素ボンベを背負いながら、準備くださった食事のありがたさが身に沁みました。

蕎麦夫妻

【「までい」とは「手間ひまを惜しまず」「心をこめて」「丁寧に」「慎ましく」という「スローライフ」のこと】
飯館村は全戸の1/3が旧満州などからの引き上げで、県内でも気温が数度も低い寒冷の地で、木を切り、土地を耕し、半世紀かけて「日本一美しい村」としての麗しい里を作り上げた場所です。引き上げ者は阿武隈山系の飯館にしか土地を見つけられなかったのです。人口流出、子供も少なかったので、エンジェルプランや男性の育児休暇などもいち早く取り組んでいた村です。そして、「若妻の翼」は村の補助金40万円に自己負担10万円でヨーロッパ研修旅行に送り出したのです。添乗員もつけずに。自分たちで判断しながら周り、自主性や積極性を養う研修旅行でした。一人の自立した人間として生きていくためでした。
もう一度村を開拓し直す。戦後と同じ。20年30年後に帰って来た孫、ひ孫たちに、じいちゃん、ばあちゃんは日本一の村を復活させたと次世代に美しい村を手渡したい人々は、絶望から立ち上がる強さを持っておられます。その絶望の中に希望の光を見ているのです。「希望」は「自分のため」でなく「次世代のため」未来を見つめている中からうまれているようです。
花子さんもこの「若妻の翼」で研修旅行に行った一人です。

長谷川花子さん

原発立地地区が合併して南相馬市になる時に飯館村は原発に頼らない村づくりを目指し村のまま存続しました。原発交付金とは全く無縁だったこの小さな村が、長い時間をかけて知恵を絞り、障壁を乗り越え育てて来た「までいライフ」がたった一度の核事故(原発事故)で全てが水泡に帰したのです。事故による放射能被害がよりによって飯館村を襲い、被災への補償金が・・・それがどのように使われていくかということが・・・

本当に原発事故が壊したのは、人々が長年耕し、培って来た「日常」なのだということをいたい程痛感しました。

小高同慶寺
飯舘村から、小高の同慶寺に行きました。同慶寺は相馬藩の菩提寺として田中徳雲さんが住職として守っておられます。菩提寺なので、歴代の相馬の藩主が休んでおられるお墓が並んでいます。
田中ご住職のお話は何度聞いても心を打たれます。原発について学び、知識を持っておられたご住職は、あの大地震のあとの津波で停電になり、原発で電源喪失すればメルトダウンは避けられないと、いち早く避難を決断されました。逃げるように周りの人を誘っても、素直に逃げてくれる人はいなかったと。車に乗れる人数から、ご母堂を一人置いていかざるを得ない厳しい現実にどれほど心を痛められたことでしょうか。福井に避難され、ご住職だけが小高に戻られ、家族が離ればなれの生活。ご住職の福井と小高の往復の生活、父親のいない家族のストレスなど、限界を迎え、実家のあるいわきへ再避難されました。その時の子どもたちの抵抗を親の権威で車に乗せたことを今でも考えられるそうです。再度の引越に素足で逃げて木々の茂みにうずくまって泣きながら抵抗する子供を、謝りながら引きずり抱えて車に乗せて走ったことは、ご住職の脳裏に鮮明に蘇っているようでした。各地に散らばって避難された檀家さんたちのケアのために走り回れた距離は半端ではありません。地球7回半程にもなるとか。生きる望みを失う程の苦しみと悩みの中にある檀家さんたちに寄り添うために、まさに身を削って仕えておられる姿が神々しかったです。

同慶寺

お話を伺う回を重ねる毎にご住職のこの未曾有の災害に対してのお考えが深まり、神さま(仏さま)が私たちに与えてくださっている貴重なチャンスとして、この災害を捉えられ、自らの生活を変えるようにとの呼びかけに真摯に、具体的に向き合っておられる姿が滲み出ていました。お子さんたちは現代社会の子どもたちなので、父親のご住職の生き方、生活のありかたをまだまだ理解できない所があるのは否めない現実です。が、父の背中を見て育つ子供が大人になったとき、きっと「ア、そうだったんだ!」と分ってくれることを信じておられる信頼も伝わってきました。具体的な日常生活が自然との共存、自然の恵みを大切に生きられる徹底さに背筋が伸びました。東京ではできないかもしれないのですが、車も廃油とガソリンの併用で走っておられます。

天ぷら油

第一日目を終え、今日は原ノ町駅前のホテルに宿泊。
原ノ町駅は、相馬野馬追とマッチした駅舎。(続く)

 

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.33② 2019.9

第二部
国道6号線
昨日の余韻を心に、巡礼二日目です。
原ノ町駅前を出発して6号線を南下。帰還困難区域を通過する巡礼です。バリケードのある6号線を通るのがはじめての人が多く、車中の空気は緊張していました。シ〜〜ンと静まりかえる車中。旅人の心は様々な祈りが捧げられているようでした。8年前から手が付けられていない、人の住んでいる痕跡のない家々、人の息づかいを受けていない環境は、ぽっかりと穴があいたようでした。それでも、植物はそれぞれの営なみを続けているのがいじらしく感じられました。

バリケード

そんな道路脇では、労働者が・・・
その姿を見た私の目は点になりました。
車の窓を開けてはいけない。二輪車も、歩行も通行を禁止されている。車の停車も許されない。信号機は黄色が点滅している6号線で写真のような作業員???

6号線作業6号線作業①

 

廃炉資料館
昨年オープンした、廃炉資料館をたずねました。
映像をみながら、廃炉がどのように行なわれていくのか分りました。日頃の疑問を、説明をしてくれた女性にぶつけ、別の男性が細かな説明で補助をしてくれる場面が何度かありました。
資料館の説明の職員に問うても仕方のないでも、悶々としている疑問はやはり口をついて
出てくるのでした。「こういうコメントがあったということを、上の人に伝えてくれればいいのですよ」と女性職員をフォロー。飯舘村で線量計が二つある理由などの説明を聞いているので、素直に「あ、そうですか」と受け容れがたい状況を事故後の対応が作り上げてしまっています。素人が自分で学び、判断し、行動することの難しさを今回も感じました。「核」そのものは、自然界に存在するもので悪ではないのでしょう。しかし、人間によって間違った使い方をされてしまった「核」、分裂と不信を生じさせた「核」は、「悪」ではないでしょうか。
今回資料館で新しい体験をさせてもらえました。全面マスクでの原発労働者の話しをよく耳にしていました。あの異様な姿のマスクを何度もテレビで見ました。現物を目にしたのもはじめてでしたが、それをかぶってみたのは、勿論はじめてでした。ぴちっと密閉してマスクをかぶったわけではないのですが、呼吸は以外と楽でした。旧式のものと新式のものが展示されていました。改良されて新しいものは軽くなっていました。

全面マスク

第一原発の敷地の模型が作られていて、その前で説明を受けました。

廃炉説明

ボルト式の貯水タンクを溶接型のタンクに。中の汚染水を移し替えているのですが、最後は作業員の手作業。線量は作業をしても問題ないほどにアルプスで核物質を除去してからの水といわれても、う〜〜ん??という感じでした。
とにかく、全てが未知の世界で、今後どのような健康障害が出て来るかも分らないわけです。
私が気になっているのは、3月12日からのあのとき何も知らされないまま、日常生活を送っていた人たちのことです。あの時に、放射能が流れ、雨や雪で地に落ちた地域も含めて、半径ではなく、そこがどこかはスピーディのデーターを見れば分る筈です。放射能の影響を受けた地域にいた全ての人に、そして原発労働者、除染労働者に「被曝者手帳」のようなものが発行されるべきではないかと思っています。データーはあるのですから、誠意を尽くしていのちを守っていくのが尊厳ある人の在り方ではと。「直ちに健康に影響はない」とすまされていること自体に不信を募らせるのです。あの時の被曝がどうだったか。子供たちの甲状腺癌が増加しているというのは、あの時の被曝の影響ではと思うのは常識的な思考経路から導きだされるものではないでしょうか。原因結果が分らないということも、謙遜に受け止めて、明確な原因説明ができないから、なかったことにするのは、大きな?です。今こそ、人は自然と神の前に謙虚になるチャンスを与えられているのだと思いました。

Jビレッジ
事故収束作業の前線基地であった時から、何度も訪れていたJビレッジです。
すっかり、サッカーのピッチに変身しているかつての前線基地は、あの時のことを知らなければ、ここがどんなに緊張した場所であったかということを想像することができないと思われました。大学生がピッチで大会をしていました。
Jビレッジの中も、ピッチも放射線量は管理されていました。が・・・

Jビレッジ

福島第一原発までは20キロ。第二原発までは10キロしかないのです。今後事故が起こらないとも限らないのですが・・・日本中、海岸線のいたるところに原発はあるのです。その意味では、どこに住んでいても安全の保証はないのですけれど。
Jビレッジで昼食。

広野町振興公社「バナナ農園」
広野町も核(原発)事故後全住民が避難を余儀なくされました。が、他の地域と比べて線量は低かったこともあり、いち早く帰還を決断し、お米の栽培も早くから取り組まれました。双葉地域の新たな特産品としてバナナ栽培が町100%出資で始められました。原発の影響で使われていなかった800平方メートルの園芸用ハウスを利用しての栽培です。社長は町役場に勤務していた人で、事故後の住民の苦悩、悲しみに丁寧に関わって来られた人です。「地獄をみました」との言葉は、とても重く、今も私のこころの底に沈んでいます。「人は追いつめられると、狂気になれるのだ」という言葉とともに。それほどの苦悩をともにされたことから、住民が生きていくことのできる術をなんとか作り上げようと努力されていることが伝わってきました。
住民の夢、希望、前を向いて挑戦して生きる生き甲斐づくりを目指されていました。

バナナ

あと1ヶ月遅く訪ねていれば、バナナの収穫。国産バナナを購入できたのに。残念でした。
今のところ1本650円の超高級品です。

バナナ測定
(続く)

 

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.33③ 2019.9

第三部
「NPO法人わいわいプロジェクト」
広野町綿花畑
雨の降りしきる中、広野町内をバスのなかから視察しました。バスを降りることができなかったことは残念でした。以下の写真は下見に行った時のものです。
広野町は、原発(核)事故の前日、津波で破壊されていました。津波減災のために、跡地を防災緑地として整備されていました。そこには7万本の木が植樹され、お花が植えられていました。

広野防災緑地広野堤防より

広野町の沿岸部に高さ10・7メートルに嵩上げした県道と防災緑地。海岸沿いの8・7メートルの防潮堤と合わせ、津波被害を軽減する多重防御の役割が期待される。同町を襲った津波は約9メートルとされ、高さ6・2メートルの防潮堤が損壊(ネットより)

綿花畑

塩害に侵された耕作放棄地に土地の荒廃を防ぐ意味も含め、塩害に強い「コットン」栽培がされています。ここで作付けされているのはオーガニックコットン。このコットン畑にも自然の仲間が闇に乗じて訪れた足跡が残されていました。また、広野町には260haの田んぼがあり、そのうち160haが再開されていますが、田んぼアートもつくられていました。

広坊や

「とんぼのめがねは、ま〜〜るいめがね♩♪」
という童謡をご存知と思います。これは広野町の額田医師が往診に出かけた際に、子どもたちがとんぼと遊んでいた姿を見て作詞したものなのです。それで、広坊はとんぼなのです。
広野町の拠点づくりを目指してのプロジェクトです。広野町は町を復活させるためには次世代の人づくりが大切なので、教育に力を入れ、「広野未来学園」をつくり、生徒の半分は地元から、半分は全国から集まっています。寮も立派な寮が準備され、体育館もスポーツ独自のものが別に準備されています。町として「子ども園」をつくり、民間に委託しています。住民が夢と生き甲斐をもって前を向くことのできる環境づくりに取り組んでおられることを知りました。
また、この学びのために案内をしてくださった代表は、実はあの歴史的な時に第二原発で働いておられた方でした。第二原発の話しはあまり耳にする機会がありませんでした。が、大変だったということは風に乗って伝わってきましたが・・・実際にお話を伺い、危機一髪だったということが分りました。あの時、身の危険を犯して第二原発を冷温停止に持っていってくださった方々に対してどれだけ感謝をしてもし尽くせないと思いました。あの冷温停止に失敗していたら、今頃、私たちはどこにいるのでしょうか?関東全域、人の住むことができない場所になっていたということです。
第二原発についても、もっと事実を伺いたいと思いました。
この後一路、湯本、元禄からの老舗温泉宿「古滝屋」へ。従業員130人を抱えるこの老舗旅館も実は震災の大きな影響を受け、大きな被災で廃業を真剣に考えなければならないくらいの所まで追い込まれ、残ってくれた8人の従業員と社長、若女将で、ここまで繋いでくれたご先祖のことを思うと、ここで廃業はできないと踏ん張られたとのことでした。厨房が使用不能な程のダメージを受けたけれども、幸いに温泉の方は大丈夫だったので、取りあえず、素泊まりで営業をされていました。
そんな中でも、社長さんはこの未曾有の震災で一番困難な状況にいるのは、障害を持っている子どもたちでしょうとの思いから「ふよう土」という団体を立ち上げ、活動をはじめておられたのです。大人が子どものふよう土となって、育てていかなければいけないというコンセプトです。その考えに魅せられて、「いぶき宿」は、この宿で泊めって頂くことにしました。学生ボランティアのためには、建築科の学生たちの設計でプライバシーが保てる、蚕ベット(?)のようなスペースを、使っていない大広間に設置し、低額でボランティア学生に宿泊を提供するということもされていました。今回は夕食を提供してもらえました。厨房が整備されてシェフにも戻ってもらえたのが昨年の11月、7年半すぎていました。その間のご苦労は計り知れないと思います。

古滝屋で

 

いわき教会でのミサ
巡礼のミサをいわきの教会で捧げました。なんと、仙台教区の神学生が来ていました。小笠原神父様に神学校で教えてもらったとか。嬉しいサプライズでした。また、彼自身の震災の体験を分かち合ってもらえたのも嬉しかったです。

いわきオリーブ園
「いわきオリーブプロジェクト」のオリーブ園に行きました。

オリーブ園看板オリーヴ

NPOいわきオリーブプロジェクトが目指すもの
特定非営利活動法人いわきオリーブプロジェクトは、オリーブ研究活動を通して地域や社会福祉への
貢献に関する事業を行い、住みよい地域環境作り、地域福祉への理解促進に寄与することを目的(定款、第3条)とし、目的を達成するため次の事業を行う。
①地域農業支援および農業生産事業
②農業体験の企画・運営
③農村地域振興の企画・調査・研究
④就農支援活動
⑤地域の観光名所の情報提供
⑥観光地同士の相互協力や連携、交流の活動
⑦この法人の目的を達成するために必要な事業
(ネットより)
お話を伺い、ボランティアとの連係、子どもたち、地域にも開かれている活動、そして、オリーブを通して日本全国と繋がることを目指しておられることに感銘しました。オリーブ加工品の品々を求めました。はじめて「オリーブ茶」を飲んでみましたが、しっとりと美味しかったです。また、オリーブは雌雄別木であり、雌雄で植えなければ実はできないこと、空気受粉であることも学びました。このオリーブ園には、種類の違うオリーブが植えられていました。
中野区の地域密着タウン情報誌「おこのみっくす」がいわきのオリーブを支援する「オリーブ羽ばたきの会」を立ち上げいわきとの交流を深められ、2016年4月に中野で「オリーブの祭典」を企画。JR中野の駅長さん発案の鉄路で繋ぐ「オリーブ列車」が4月16日に走りました。この日を記念して9時9分いわき発の常磐列車にはオリーブ特別ヘッドがつけられました。
松戸、上野、東京、新宿、そして中野のそれぞれの駅で駅長さんにオリーブの苗木を贈呈していく交流列車でした。オリーブがいわきと関東を結んだ列車は、これからの繋がりのスタートを切ったオリーブの旅だったのでしょう。

オリーブ園

今回の旅は巡礼の旅。本当にこの巡礼の旅は、3日間で終わるのではなく、これからずっと続いていく旅であると感じています。
感謝をこめて(野上)


「いぶき宿通信」No.31

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.31 2019.3

8年目の3月11日、3月15日
 東日本大震災、福島第一原発核事故から8年。
今年も3月11日、15日がめぐってきました。
この8年の間、変わったこと、変わらないこと、そして、しんどさが増していることなど・・・
福島から距離的に離れれば離れる程、何だか原発事故に関しては忘れ去られるだけでなく、あたかも「そんなことがあったのね」日常的にはそんなことなかったかのような空気が漂っているように感じられます。
 そんな中、古都鎌倉では2011年4月11日に諸宗教による追悼慰霊、祈りの集いが2012年からは3月11日に途切れることなく続けられて来ています。2011年4月11日の第1回は鎌倉鶴岡八幡宮で開催されました。
そのときの印象は今でも鮮明に心身にしみ込んでいます。八幡宮の舞殿に各宗派の宗教者代表が昇りそれぞれの祈りを捧げたのです。神主さん、僧侶、カトリック司祭、プロテスタント牧師と。鎌倉在住のそれぞれの宗派の僧侶の方々がご一緒に〈般若心経〉を読経され、これに参加者が唱和した、あの肚に響き渡る読経が今でも身体に木霊しています。その後、宗教毎にグループをつくり由比ケ浜まで祈りのラリーをして、浜にも祭壇を設けて海に向って、それぞれの宗教が祈ったこと。浜での祈りの最中に、突然、参加者の携帯にけたたましく「ヒューー、ヒューー」と警報がはいったのです。同時に砂浜が揺れました。大きな地震でした。一瞬騒然としましたが津波がないことを確認し、祈りが続けられました。この体験は、3月11日の大震災の1か月後であっただけに、強烈な印象として私のうちに生きています。
『東日本大震災 追善供養 復興祈願祭
「趣意書」
鶴岡八幡宮      宮司  吉田 茂穂
鎌倉市仏教会会長   覚園寺 仲田 昌弘
キリスト教諸教会   司祭  山口 道孝
 3月11日の東日本大震災は、我が国にとって正に未曾有の大災害となりました。多くの尊い命が失われた上、大津波、加えて原子力発電所

の事故により避難を余儀なくされた被災者の方々は、現在数十万人にも及んでおり、日本は大変な国難に直面しています。
 かつて、鎌倉に幕府がおかれていた時代、国難に際して社寺がまとまり、乗り越えるための御祈願が執り行われておりました。いま、歴史を経てふたたび、神道、仏教、キリスト教の宗旨・宗派を超えて合同祈願を執り行うことに致しました。
 この大地震のちょうど一年前、鶴岡八幡宮の御神木、樹齢1000年の大銀杏が突然倒伏しました。大変悲しい出来事でしたが、日本全国からの励ましの声と共に、今は残された根元から多くの新芽が未来に向かって力強く成長を続けています。
 犠牲者を哀悼し、日常生活を奪われている被災者の皆様に思いを寄せ、鎌倉中の宗教者たちが心を一つに祈りを捧げ、被災地のみならず、日本中に「復興の芽」が力強く育つことを切に願っております。お時間の許す限りご参列下されば幸いです。
 鶴岡八幡宮舞殿での祈願祭終了後、建長寺や円覚寺などの修行僧やキリスト教会の神父、牧師、シスターが、義援金の寄付を呼びかけながら、小町通りと若宮大路を歩き、由比ガ浜に向かった。集まった義援金は、東日本大震災追善供養復興祈願祭参加者一同として日本赤十字社に寄付された。』
『舞殿での祈願祭には約1万人の市民も参列し、舞殿前に設けられた焼香台で焼香した。舞殿では海が穏やかになることを祈願して「浦安の舞」が奉納された。』
(鎌倉で3宗教合同の復興祈願祭—東日本大震災⑰より)
 今年はカトリック雪ノ下教会で開催されました。(www.praykamakura.org鎌倉宗教者会議で見ることができます。)

『いのちの光3・15』
 3月15日に原町教会で大震災、原発事故(核事故)8年目の追悼ミサ、講演会が開催されました。久しぶりに常磐線で福島まで行きました。まだ全線開通していませんので、一部代行バスで6号線を走りました。6号線大熊町、双葉町、第一原発が近づくにつれ、バスの中での線量計の数値は一寸意外な程にあがってきました。6号線を車で走れるようになった直後以外は、あまり驚かなかった数値ですが、今回ばかりは、正直何がおこっているのかしら?と様々な想像が頭の中を駆け巡りました。代行バスに乗ると車掌さんからは、「帰還困難区域を通りますので、窓は決して明けないでください」との注意事項もありました。6号線を通る時には窓を開けてはいけないことは今までとかわりません。が、働いている人はいるのです。
 同慶寺のご住職、田中徳雲さんの講演からいろいろなことを学びました。時間が短く充分に語り尽くされなかったことは残念でしたが「『原発事故後の福島で生きる』〜7世代先の子どもたちのために〜」と言う小冊子をくださり、そこから更に何をしたらいいのか、ビジョンをもらえました。同慶寺は、相馬藩の菩提寺であり、相馬藩は源頼朝から領地をうけています。
『一番最初の祖先は、平安時代の相馬小次郎将門。あなたがたは平将門(たいらのまさかど)というけれど、将門は相馬の姓を名乗っていたんですよ。』『有名な「相馬野馬追(のまおい)」は1千年以上続いている行事だけれど、もともとは将門が始めた軍事演習でした。江戸時代も神事として続けられ、明治以降は相馬家が東京へ移ってしまったから、当主不在で行われてきた。』『第2次大戦の最後の年、相馬野馬追は中止のはずでした。でも、その人は先祖代々ずっと続けている伝統を途絶えさせるわけにいかないと思い、一人でも決行しようと鎧(よろい)を着て、家族に別れを告げ、神社へ向かった。すると、大勢の人が同じ思いで集まっていたそうです。米軍の飛行機が飛んでいる中、決死の 覚悟で行われた相馬野馬追――。命がけで1千年以上の伝統を守ってきた、という話でした。相馬野馬追は、彼らの魂であり、宗教のようなものだとわかりました。』(相馬家33代当主の話し)
 16日は仙台教会で小児科、精神科医の北川恵以子さんの講演会でした。北川さんは原発事故後毎月福島に通い、子どもたちの健康(心身)の相談を受けて来られ、その経験からお話しくださいました。
 2月の末には「正義と平和協議会全国担当者会議」も行なわれなした。
 2月の脱原発グループでの話し、15日の田中徳雲僧侶の話し、そして北川さんの話しにきせずして同じ提案がなされたことが大きなインパクトでした。共通してはなされたことは、「保養」でした。「原発事故後を生きる人々」にとって保養がどれほど大切であり、必要なことかが理解できました。どのような保養であれば、子どもたちにとって生きる力をつけていくものになるのかと、具体的にはご住職の生き方、そして活動の紹介から大きな示唆が与えられました。ご住職自身の保養に行かれた体験の分かち合いも説得力がありました。
 「自分はどう生きていくかを問われている。それが、今回の福島の事故。それに尽きる」「国の政策は・・・もっと闇になって行くよう。8年経っても。・・・明けない夜はないから必ず朝がくる。私たち自身が光になって行く。光を求めていました。それでもいいのかもしれないけど、自らが光になって行くということ。その為に現実の生活と求める生活とをどういうふうに擦り合わせて行くかという、今そういう段階。強いていうなら、芋虫から蝶になる。地球を食いつぶしてしまう芋虫から蝶になる。蜜を吸い、受粉を助けて行く蝶になる。今はさなぎの時期。日常のできることからしていく。蝶々が飛ぶ練習のとき、飛ぶためには沢山持っていたら飛べない・・・手放していくことが大切」(田中徳雲住職のはなし)ご住職が話された保養は、福島のひとたちだけに必要なのではなく、病んでいる日本社会に生活している子供たち、大人たち皆に、日本だけでなく、痛めつけられている地球の家にすんでいる人々皆に必要な、本当の人となるため、人を取り戻すための保養なのだと納得しました。


「いぶき宿通信」No.30

小浜原発僧侶「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.30 2018.12

主の御降誕と新年のお喜びを申し上げます

   本年のご支援に心から感謝申し上げます。来年も宜しくお願い致します。

鎌倉市民クリスマスパレード
11月8日(土):キリスト教/プロテスタント、カトリック、仏教の僧侶も参加しての主の降誕をつげ、平和を祈願するパレードでした。祈りの集いは雪の下教会の敷地道路脇で行なわれたので、若宮大通りの観光客、鎌倉八幡宮への段葛を歩いている人たちも何事かと、車も徐行しながらこのイベントを覗いていたり・・・
多くの人の目に触れました。

市民クリスマス
平和の光を鎌倉の地から

お坊さん、牧師さん、神父さんたちが壇上に並んで祈っている姿を、若者は「聖(セント)にいさん(仏陀とキリストの漫画)、みたい」とコメントしていたのが印象的でした。

聖にいさん
宗教者が一つとなって平和のために

また、段葛で止まってみている人は、積極的にプログラムを受け取ってくれたり、賛美歌を歌っているときなど、一緒に歌いながら段葛を歩いている人も見られたり、その人々の顔は心なしか緩みほころんでいるようでした。

共に生きる地球家族
第40回日本カトリック正義と平和全国集会が、11月23日(金)24日(土)と名古屋で行なわれました。16の分科会に分れ、日本社会の様々な課題を取り上げた分科会でした。
どれもじっくりと耳を傾けたいものばかりですが、1点突破全面展開と個人的には、分科会「美しい若狭を守ろう〜世界一原発密集地域から」に参加しました。

小浜原発僧侶

ここでの講演者は50年間一貫して原発拒否し続け、小浜市の原発設置を拒否し続けた運動に取り組んで来られた僧侶でした。
中嶌哲演さんは小浜市明通寺の住職です。ご住職はガリ版手刷りのちらし「鈴声」を一軒一軒托鉢しながら配り続けられたのです。それには原子力発電がどのようなものかが書かれ、若狭が原発銀座となるように狙い撃ちされていることも・・・2012年には大飯原発再稼働に反対してハンガーストライキもされ、2014年には福井地裁で勝訴判決を勝ち取っています。が、
大飯原発3号機、4号機について、地元の福井県おおい町議会は、再稼働を容認することを決め、町長に報告しました。これを受けて、町長は近く再稼働を認める町としての意向を福井県知事に伝えるとみられています。
政府が求めていた地元同意のうち、初めて再稼働を容認する判断を下したおおい町議会。
時岡町長は近く、町としての意向を西川県知事に伝える見通しです。(2012.5.14 TBS Newsネットより)
2018年3月14日に3号機が再稼働しました。小浜住民は原発立地地元ではないということで、小浜市民の反対は却下されました。
ちなみに大飯町の人口は8,351人、世帯数3,183小浜市の人口は29,398人世帯数11,987
小浜市も放射能の影響をもろに受ける地域であるにもかかわらず・・・何ともおかしな理屈。

朗読劇 線量計が鳴る 〜元原発技師のモノローグ〜

脚本・出演中村敦夫の朗読劇が12月16日に鎌倉生涯学習センタ—ホールで行なわれました。2時間の朗読劇は迫力に富み、原発の全貌が見渡せ、点での情報が線になり、面になり、立体として見えてくるようなものでした。
「右を向けと言われたら右を向き、左と言われれば左を向き、死ねと言われたら死ぬと。俺はもう、そんな日本人にはなりたくねえんだ。」

中村敦夫

「起きてしまえば、原発事故は戦争に匹敵する巨大なテーマである。正面から取り組まなければ、表現者としての人生は完結しない。」
原発に関して「一から学び直し、問題全体を血肉で理解する必要を感じた。」血肉で理解するとはどういうことなのだろうとちらしに書かれた中村さんの言葉が心をついてきました。今の福島の姿だけでなく、今の姿になる越かたを掘り下げ、チェルノブイリを訪ねて、これからの福島の姿を捜した中村さんの原発に正に、正面から向き合っている姿が朗読劇の中からもビンビンと伝わってきました。
舞台のスクリーンには必要に応じて資料が映しだされました。データーを読み込み、出された事実とその背後にあるものをみすえて脚本がつくられ、朗読がすすめられて行きました。ここに、この朗読劇が事実だけでなく、真実を追究していることが理解できました。
「マスコミは大スポンサーである電力会社に忖度し、反原発の言論を神経質にチェックする。日本は、『報道の自由』世界ランキングで、70何位と言う不名誉な評価を受けている。まさに、報道統制国家である。・・・
この境遇の中で、表現者が『真実』を披露するのは可成り困難である。・・・私は複雑な情報を整理し、材料を取捨選択し、原発の抱える本質的な問題と構造が誰にでも分りやすく見えるような作品を書こうと決意した。・・・私は、原発と言う巨大テーマに、素手で立ち向かうことになった。」(『線量計が鳴る』中村敦夫P.6)
78才にもなられている中村さんは、2時間の朗読劇を全身全霊で立ったまま演じておられました。気魄を感じました。
「ジャーナリストにとって大事なことは、単なる事実報道ではなく事実に基づいた真実を伝えることだと思います。いまのマスコミも確かに事実は伝えています。福島原発事故の際の政府や東電の発表も一つの事実ですから。しかし彼等が言うことの裏の面やまだ明らかにされていない事実があるかもしれないことに注意を払い、それを掘り起こさなければなりません。・・・どこにもこびず、焦らず、数十年先を見通す目を持って、時間をかけて時代を撮り続けることの大切さが、この年になって分ったというのが今の実感ですね。」(『消される原発労働をおいかけて』樋口健二)撮影50年炭坑労働者、四日市公害、水俣、そして原発労働者の写真を撮り始めて38年。とても説得力のある言葉です。この二人がどこか繋がっているように感じました。

「この本の二作は、プロ、アマチュアを問わず、原発ゼロを目指す人々によって、どんどん上演されることが作者のねがいである。」(同上p.7中村敦夫)
ありがたいお言葉です!プロ、アマチュア問わず、脚本を使っても良いと言う・・・

                                    野上幸恵記


「いぶき宿通信」No.29

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.29 2018.10

秋刀魚パーティー
大船渡でボランティアをしていた私たちは、秋になるとあの秋刀魚が思い出されます。大船渡で水揚げされた秋刀魚の美味しかったこと!
魚屋さんの店先で、包丁さばきに見入っていたことが懐かしく思い出されます。
秋刀魚の刺身が美しい包丁さばきで、見事に皿に並べられて行くのを感嘆しながら眺めていました。あのおいしい秋刀魚を内陸の農家の人たちに味わってもらいたいと、大船渡から送ってもらい秋刀魚パーティーをしました。
集まったのは、私たち「いぶき宿」と関わりを持っている人たち。「えすぺり」の有機農業の大河原さん、荏胡麻の渡邊さん、有機農業のために移住された稲福さん、有機農業しながら、加工しておられる村上さん、有機食材を加工しておられる「ままりん」さん親子、そして、「えすぺり」の食堂をされている大河原さん若夫妻と、大河原海さんと一緒に「堀越ファーム」を立ち上げられたファームの社長さん。
堀越地区の農業を引き継ぐ、たった二人の若手農業者です。

秋刀魚パーティー②

荏胡麻の渡邊さん、10月18日(日)の
テレビにでます。どのチャンネルかは、地方によって違うと思いますので、

チェックしてください。また、11月11日「朝日新聞」サンデー版でもとりあげられます。
是非みてください!

「いつもは1尾なのに、今日は2尾もたべていいんですか?」うれしそうな笑顔が皆さんの顔に広がり、その笑顔が心なしか、都会では久しく出会えないとても素直な、純な笑顔だったことが印象的で、これを書いている今も思い浮かんでくる程でした。
「堀越ファーム」は、堀越地区の耕作放棄地や後継者のいない農地を守るために農業を会社組織にして、いのちの大地を継承して行くために立ち上げられたのです。地域に二人しかいない後継者が、一緒に頑張ることができるために親たちの代の農業従事者が二人を農業指導をし
ながら支えています。次の世代に「いのちの大地」を手渡して行き、いのちの源を人々に届ける道を断たないための取り組みです。そんな彼等と共に歩むことを許されている私たちは本当に恵まれた者だと思いました。
このメンバーが一同に集まったのは初めてだったようです。これをきっかけに同じ志をもって食物を作っている人たちが、コラボできればと話し合いがなされていることをみて、「あ、よかった!秋刀魚パーティーが皆さんの繋がりをもう一歩深める、広がりを持たせるきっかけになったのかもしれない」と感慨深かったです。
【堀越地区】

堀越2050

この立て看は、大河原さんの自宅前、かぼちゃ小屋の裏の堀越南小学校の子どもたちが立てたものでした。そして後ろに見える建物は大河原さんの自宅です。
錦糸かぼちゃ(そうめんかぼちゃ)ジャム
今回は、福福堂さんに加工をお願いしている「錦糸かぼちゃジャム」のラベル貼りも作業の一つでした。出来上がったジャムに一つ一つラベルを貼りながら、育ててくださった大河原さん、加工してくださった稲福さん、そして寄附購入してくださり味わってくださる方々を繋げるジャムなんだなとの思いをかみしめながらの作業でした。

ラベルはり

早朝の畑
次の日朝早く、畑にいきました。秋刀魚パーティーには新米でのおにぎりが作られる筈だったのです!が残念なことにお米の脱穀ができなかったのです。というのも農業は気候に大きく左右されます。はさがけしてある稲が渇いていないと脱穀できません。今日はお天気、明日にでも脱穀と思っていると次の日には雨、渇いては濡れがこのところ続いていたのです。

稲のはさがけ

毎月大河原さんの野菜を仕入れて販売してくれているのは東京大森の支援グループです。
そこへ送る野菜を収穫に行きました。
朝穫りの新鮮な野菜を送るためです。
「これ、人参!」
「ここ一面、人参を植えたんですよ。今年は沢山の種を蒔いたんですけど、でも、みてください!このほんの少しの所だけそだっているでしょう!あちらはもう凡て掘り起こしてしまったんです。草取りが追いつかなくて、抜いても抜いても、雑草が生い茂って。雑草を抜くときに少し大きく育っていれば次の雑草抜きまで負けないんですけれど、そうでなければそだたないんです。相談して、あちらはみな、耕耘機で掘り返してしまったんです。淋しいですね。」雑草に負けずに育ったのはほんの少し。本当にさびしいですし、かなしいです。『草取りに来れれば・・・』と思っても、たまの草取りではだめです。家庭菜園とは違う農業の厳しさを
垣間みた思いです。

残念な人参

枝豆は?「これも少し送れるかしら?どれだけいいものが取れるか分らないけれど・・・」そう、「秘伝」と呼ばれる枝豆(私たちが「だだちゃ豆」呼んでいる)はとてもおいしい枝豆です。が、今年の夏のあの異常気候のせいで、実の入りが本当に悪いです。ふっくらとしっかり入っている実は少なく、全く実のないもの、一粒しかない鞘、鞘に実はあっても、やせ細っているもの、「あ〜ぁ、あのふっくらとした枝豆はどこ???」

実入りの悪い枝豆

農業は本当に厳しい作業!気候に左右される、自らの思い通りにも、計画通りにもいかない事だらけ。思わぬ出来事にも、打撃にも、やわらかく対処して大自然の営みにあわせて行く生き方から、本当の「いのちへの優しさ」が溢れてくるのだと納得しました。     野上記


「いぶき宿通信」No.28

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.28 2018.8

仙台教区サポート会議
8月24日、福島市野田町教会で東日本大震災・福島第一原発事故から7年間の活動を振返り8年目を迎えるにあたり、活動を通して見えている現状、問題、今後の課題について福島県内の小教区で活動を継続している人たちの意見交換がなされました。
All Japanとして、大震災直後から日本のカトリック教会は一丸となって復興支援に取り組んできました。今回の会議は福島の活動について、現場で活動している人から、福島の現状、問題、課題を聴き、8年目を迎える中で、今後の取り組みを考える素材集めだったのでしょうか。
司教団の復興支援担当司教、当地の仙台司教、3教会管区の復興支援責任者の司教(東京出席、大阪と長崎欠席)カリタスジャパンの秘書、司教団仙台教区支援担当補佐、同事務局、全ベースの参加者などが参加していました。
多重な問題が複雑に絡み合った中での活動は年限を経るにつれて難しくなっています。
7年という時間はそれぞれがそれだけ年を取るということです。子どもにとっては成長するということ。当時0才だった乳児は小学校に入り、90才前半だった人は100才を越え、鬼籍に入られた方も多いです。高齢者二人で支え合っていた人の中には一人になった人も。
教皇フランシスコの言葉「現実こそが神の場である。今この時に生きることを大切にしたい」が思い出されました。現実は過去の出来事ではなく、それを背景にした今、それぞれの個人、地域社会、・・・が7年間の歴史(今の連続)を背負っての現実であることを思いました。真摯な想いに背筋が伸び、その現実の前に頭が垂れるようでした。

さんさんバザー@えすぺり
8月25日、「えすぺり」での「さんさんバザー」も10回目を迎えました。原発事故に伴い、地域で農業をしていた人たちはいのちの大地を放射能で汚され、汚染された大地からの放射能が農作物に移行しないように様々な手立てをとり続けながら、農作物の放射線量を一つ一つ測定した日々。出荷停止となり、希望を失い、心身のバランスも崩れ、自ら死を選んだ人も一人二人ではありませんでした。出荷可能なところまで漕ぎ着けても、今度は買ってもらえない日々が続いていたのです。
地域の農家さんと一緒にしていた直売所も閉鎖に追い込まれ、暗〜〜い容姿のお仲間、仲間と一緒に再度、希望を見つける為に仲間の農家さんが農作物を並べることのできる「えすぺり」(エスペラント語で希望)を立ち上げ、そこが人々の集まる場となることを夢みられて大きな借金をかかえての素人の商売の出発を決断されたのは大河原さんご夫妻でした。言葉には尽くせない苦労と眠れない日々が続いたことでした。
その大河原さんに出会えた私たちは、とても感謝しています。私たち「いぶき宿」はいのちのいぶきが出会い、場を共有し、いのちの交流をもち、いのちを育て育むことを夢みています。
その夢が今回の「さんさんバザー」で、目の前にあらわれたようでした。もちろん、今までもこの夢は「えすぺり」で、その時その時に実現していました。が、今回のバザーでは、「神さまの粋なお計らい」に出会った強い印象を持ったのです。「えすぺり」がいのちの様々な側面の出会いの場を提供し、その場を共有している人がいのちを豊かに育てているという実感をもったのです。
最初に出会った頃の「えすぺり」に作物を納入されている農家さんの顔と、今の農家さんの顔は、全くちがいます。希望のなかった顔に希望の光がともり、明るいお顔になり、かかわる人にも希望の喜びを伝えておられるようです。
そして、新しい商品を開発しておられる前向きな姿勢に「希望」を感じました。
そんな場は、絵画展、着物リフォーム展、ライブ、人業劇など、実に様々な人々の文化交流の場でもあります。また、地域の人々の交流として夜のイベント:うぬぼれ文化祭(大人の文化祭)/自分が今嵌まっていること、やっていることの発表会(演奏であったり、朗読であったり・・・)/が開催されて、和気あいあいとそれぞれの別の顔が自己紹介され、関わりを深めておられます。
さて、今回のさんさんバザーでの詰め放題に出されていたのは、枝豆とミニトマトでした。人だかりが・・・覗いてみると、枝豆の詰め放題。あっという間に完売でした。

詰め放題         錦糸かぼちゃ

(詰め放題)                           (錦糸かぼちゃジャムになるよ!)
今回もアロマトリートメントを持って行きました。お顔なじみになっている方もあり、また会えるのがうれしく、楽しみな時でもあります。
「今日はしてもらいたいから、これをもって行って差し上げる」と、ご自分でつくられたおとぎり草の「虫さされ」にいい自然薬を持って来てくださいました。うれしかったです!
お店を出しておられる方々は、お客さんのアロマトリートメントが先と思っておられるので、いつも遠慮がちです。でも、今回は私たちが3人いて何となくゆったりしていたので、イベントが終わってから、次々とお願いできますか?と来てくださり、夕方の6時までトリートメントを提供できました。「あ〜〜あ、今までこのゆったり感が私たちになかったのかな」と反省至極でした。このゆったり感が私たちの中に醸し出されたのは、ひょっとして今日のお二人との出会いかもしれないと思いました。
お一人は、72才の陶芸家、日下部正和さんです。「えすぺり」に入って来られた時、おみ足の悪いことに気づきました。お声かけしてトリートメントをして差し上げたいなと思って、呼び止めました。

ハンドトリートメント               杯

(トリートメント)                               (日下部さんの焼き物)
何か持っていらっしゃる方だなとの直感が働きました。にこっとして「お願いしようかな」と素直に受けてくださった姿勢に、素直な方だなと思いました。お話をうかがいながら、世界の各地に「陶器の焼釜」を作っておられる陶芸家ということが分り、陶器の話しに花が咲き、油滴天目の話しで盛り上がっていました。トリートメントが終わり、「一寸家にいってとって来ます」といって、私たちに油滴天目の杯(ちょっとわけあり)を一つづつプレゼントしてくださいました。また、ご自分が大病で余命3ヶ月と言われてから、書かれたお地蔵さんの顔(墨絵)もプレゼントしてくださり、来年の三春の時に工房をお訪ねする約束をしました。
そしてもうお一人は、サックス奏者の坪山健一さんでした。大変多くのレパートリーの中から、お客さんのリクエストに応えて演奏してくださいました。ソプラノサックス、アルトサックスとリクエストに応じて代えての演奏です。
久しぶりのライブでした。サックス演奏があったせいでしょうか、お客さんが多かったです。また、男性もたくさん来てくださっていたのが印象に残っています。懐かしい曲目が流れ、トリートメントの流れも音楽的になっていました。心地よい空気がみなぎっていました。そして、何とこのサックス奏者坪山さんは高山右近の列福式の音楽を作曲された方だということが話している中で分りました。私たち3人がシスターだの修道院だのとの言葉を発していたのを小耳に挟まれ、ご自分もカトリックだと、同じ信仰の繋がりが一気に距離を縮めました。

サックス演奏         教皇ことば

(サックス演奏)        (日下部さんの墨絵)
「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.28 2018.8

 


「いぶき宿通信」No.27

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.27 2018.8

「核兵器禁止条約で変わる世界 被爆国・日本は?」
2018年8月11日(土)鎌倉生涯学習センタ—で、上記表題の講演会・対談が企画された。
講師は、川崎哲氏、講演後川崎氏はスティーブン・リーパー氏と対談された。
川崎氏は、2017年ノーベル平和賞を受賞したICAN(International campaign to abolish nuclear weapons)の国際運営委員をされている。又、ピースボートの共同代表でもある。
スティーブン・リーパー氏は平和活動家であり、2007〜2013年米国人として初めて広島平和文化センターの理事長をつとめていた。
川崎氏は、ICAN事務教区長ベアトリス・フィン氏と共にシンガポールへ行き、朝鮮半島非核化と「核なき世界」へ向けた「5ステップ」の構想、政策提言を行なった。5つのステップは5つのRからなる。
① 核兵器がもたらす非人道的な結末を認識する(recognize)
この認識は、多くの韓国・朝鮮人被爆者を含めて、広島・長崎の生存者の声を聞くことによって得られるのでその声を聴くべきである。
② 禁止条約に加入し核兵器を拒否する(reject)
③ 核兵器を検証可能で不可逆的な計画のもとで除去する(remove)
④ 包括的核実験禁止条約を批准する(ratify)
⑤ 北朝鮮が核拡散防止条約と国際社会に復帰する(rejoin)
この提案は、日本、韓国も積極的に行動し、「核の傘」の幻想から離れて、核兵器禁止条約に加入すべきと提案している。
川崎氏は講演で「核兵器禁止条約」の採択までの経緯や、核兵器禁止条約の内容について丁
寧に説明をされた。
「核兵器禁止条約」採択の交渉会議の日本のテーブルには、大きな折り鶴がおかれその翼にwe wish you hereと書かれていたそうだ。

icat                     折鶴

第一条(禁止)a:核兵器の開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵、b,c:核兵器やその管理の移譲(直接、間接)、d:核兵器の使用、使用するとの威嚇、e,f:これらの行為をいかなる形でも援助、奨励、勧誘することg:自国内に配置、設置、配備。
日本が「核兵器禁止条約」に署名、批准することに何ら問題はないということが説明された。核の傘のもとにいるということはアメリカに核を使ってくださいと奨励、勧誘しているようなもので、それは恥ずべき人道に反する行為の加担者になることと同じだとの説明された。
第四条(核兵器の完全廃棄)
この条項の原案を作ったのが南アフリカであった。かつて南アフリカは核を持っていたが、完全廃棄を行なった歴史があり、それを踏まえてこれらの条約の原案が作られたとのこと。それで、現実に即したものとなっている。
第六条(被害者援助と環境回復)
この条項には広島・長崎そして世界核地域での核実験、ウラン採掘による被爆者の証言が大きな役割を果たした。被害者援助に関しては赤十字国際委員会が核の非人道性の声明を出したことが大きく作用した。
ピースボートに広島・長崎の原子爆弾(核)被爆者が乗船し、世界に核被害について当事者が証言をし、現在は福島の原発(核)被災者も
証言者として乗船している。広島・長崎・福島が核廃止で繋がっている。
日本がこの条約に署名し、批准する為に、私たち一人ひとりができることとして、Yes, ICAN、被爆者国際署名の署名活動がある。


「いぶき宿」通信No.26

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.26 2018.5−6

錦糸かぼちゃのプロジェクト
5月29日〜30日に福島を訪ねました。
29日には「えすぺり」で今年の「錦糸かぼちゃ」プロジェクトの具体的相談ができ、新たな希望が見えてきました。
地域の方々の地道な取り組みが歩を進めている事に出会うのはとても励まされます。
電話でご相談してあった、「錦糸かぼちゃ」の種からは、命の芽生えが元気に顔を出していました。

かぼちゃの芽      かぼちゃの定植畑

常磐線沿い
30日には常磐線で「いわき」から「竜田」までいってきました。
いわきから竜田へ向う車窓から眺める海沿いの

景色はそれほど変わっているようには見えませんでしたが、何度みてもフレコンバックの海には不気味なものを感じます。
楢葉の町
竜田駅に降り立つのは三度目でしょうか。前回とは全くちがって復興を感じさせる景色が多々ありました。が、反面なんとも言えない哀しさも感じました。

駅前自転車  駅前民宿   民宿1

竜田駅の駅員さんと話しが出来ました。よそからの人は珍しいと思われます。
小学校、中学校に通っている子どもたちは、楢葉に住んでいるわけではなく、いわき等に住んでいて、通って来ているという話しを聞きました。確かに、帰りの電車で小学生とおぼしき子どもたちといわきまで一緒でした。

学用品店     校内             学校入り口
「いわき」で品川からの特急「スーパー日立」の待ち合わせ。背広姿の男性が乗りついで来ました。隣りのボックスに席に座った人たちは、原発関連会社のそれなりの責任にある人たちのように思われました。別々の会社のようでしたが、作業についての情報交換のような雰囲気が感じられました。「広野」で降りる人たちは、火力発電???「竜田」で降りる人もいましたが、会社の車が迎えに来ていました。楢葉もトラックがかなり走っていました。ハード面の作業を急ピッチで行なっているのでしょう。
人々の実際の生活には厳しいものを感じました。食糧の調達も難儀です。車の運転が出来ないと食べる事も難しいのが現実のようでした。
タクシーも住民から連絡が入れば、駅の人をその場に残し、当然先ず住民です。個人的には、坂道を目的地まで歩きました。
さんさんバザ
6月23日(土)は、「えすぺり」での「さんさんバザー」でした。
今回は日帰りでアロマハンドトリートメントを提供してきました。顔見知りの方々も少しづつ増え、「気持ちがよかったので、またおねがいします」と、長い時間を待ってまで、アロマトリートメントを受けてくださいました。地域の方々がご自分たちで地域を再生していかれる歩みの中での疲れを、アロマハンドトリートメントで少しでも癒してもらえることが出来、次のステップを踏むためのエネルギ—を補充してもらえることが嬉しいです。今回、「このところ、疲れてどうにもならないので、やってください。」とご自分の方からおっしゃってくださった事に本当に来てよかった!と思いました

さんさんバザーザリガニつり  ドレッシング作り

(懐かしいザリガニつり)       (3・5・8ドレッシング作り)


「いぶき宿通信」N0.25

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.25 2018.4 

東日本第震災、核事故から7年
3月14日、常磐線を乗り継いで原町まで行きました。今回はじめて富岡駅まで電車で行くことが出来ました。波に流され、慰霊碑が置かれた駅はすっかり様相を変え、津波、核事故の痕跡は一見、見えなくなっていました。

富岡駅ホーム 富岡駅にて

富岡駅外 富岡駅の外は、まだ工事中。

浪江駅に降りたのもはじめてでした。

浪江駅①浪江代行バス

(富岡駅と浪江駅の間が代行バスで、もうすぐ全線が繋がるようです。)

浪江駅舎のタイル

(浪江駅舎の外壁タイルに描かれた馬/相馬焼き?)

富岡町も浪江町も駅に電車は来ていますが、まだ町に人気が感じられませんでした。富岡の駅前にはホテルも建っていました。
原町教会での追悼ミサ、集会の帰りでの電車での帰り道は複雑な思いでした。

第5回いのちの光3・15フクシマ
フクシマが背負ってきたもの
伝え続けるもの

3月15日が今年もめぐってきました。あれから7年、その間、福島は「フクシマ」を背負ってきました。そして、これからも背負い続けていかなければなりません。
福島から距離的に離れている関東圏の人々の意識は3月12日から15日にかけての運命の日を過去のもの、福島での出来事として意識が希薄になって来ているように思われます。目に見える復興の蔭に隠れている現実を想像する力、知ろうとする努力には大きな個人差を感じるこのごろです。
「フクシマ」を背負い続けていくのは福島だけではなく、私たちだと思います。私たちが現実として背負い続け、問い続けなければならない自分事の筈ですが、なぜか「福島は・・・」と言ってしまいます。そこには何か他人事のような印象が拭いきれません。
ミサ後には「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」の原告団長菅野秀一さんが思いを語られ、いちえふ(IF)周辺環境放射線モニタリングプロジェクト共同代表の青木正巳さんが話されました。モニタリングをされている中での話しで、一端放射線量が低下したところでも、枯れ葉が落ちて堆肥になって行くとまた放射線量が高くなる、事故後7年経った今は放射能の汚染源は『土』だとの話しがありました。土壌汚染測定器をもって実際の土を測り、放射線量により変化する音を実際に耳にすることで、見えないものの存在を感じることが出来ました。

ガイガーカウンターで

と同時に、低線量による外部被曝がどのような結果をもたらすのかは未知であること、7年前のあの核事故がもたらした結果は人類にとってはじめての経験で、全てが未知である中での生活であることに非常に難しい問題を感じました。それぞれの人が事実を知り、その中で選びとった生き方を尊重することの大切さをあらためて痛感しました。選びとった中で、未知の世界の中でどのようにして放射線被曝を少なくするかを十分に心して生活を営む以外に今のところ手立てはないように思われました。科学的な根拠を発言される学者さんたちの意見に大きな開きがあることで、私のような全くの素人は未だに「何を信じてよいのか!?」と思うのです。だからこそ、それぞれの人の決断を大事にしていきたいのです。
風評被害についての質問が出た時の答えは、
「風評ではない。実際に放射線量が出ているのだから」でした。その時に思い出したのは、「えすぺり」大河原多津子さん(私たちと共同プロジェクトをしている有機農業者)の「自分たちが丹誠込めて作った野菜を買ってもらう為には、それぞれの野菜の放射線量を測って数値を公表し、それを納得して購入してもらえる人と繋がりたい。その数値では購入できないと思われる人のことも尊重したい。」「勿論自然界にも放射能はあるので、福島の野菜でなくても測れば放射線量は数値として表れるのですが・・・いずれも放射線としては同じものであっても、それぞれの人の思いと感じ方は違い、状況も違うので。それぞれの人の選びにおまかせしたい。」との言葉でした。これが現実で、私たちが背負っていく問題の一つだと思います。もとに戻すことの出来ない事故による結果がこれ以上分断をもたらすことなく、一人一人を大切にする生き方になるように、正確な科学的な分析、研究、知識の情報が正しく伝えられること、智恵が育つ社会となること事を願ってなりません。

江古田映画祭
3・11を忘れない

ドキュメンタリー映画「原発の街を追われて~避難民・双葉町の記録」3部作(監督・堀切さとみ)を観ました。避難されているひとたちの6年間の記録です。「警戒区域のひとたち、「自主避難者」といわれる人たちが避難生活を生き抜く頑張りを支えるのは、私たちがどれだけその人たちのことを想像できるかだと思う」との監督の言葉は説得力があります。
映画の中に7年前に騎西高校に避難された双葉町の書家・渡部翠峰さんが出てきます。最初は美術室で90歳の実母と暮らし、別の教室には妻と義母もいらしたのです。避難した年の8月に、騎西高校の視聴覚室で書道教室を開き、避難生活の中で今までの生活を続け、書道を通して避難者にも生きる意欲をきり拓いていかれる姿、どんな場所にいても自分の生き方を貫こうとされる翠峰先生の姿は「生」の芸術そのものに見えました。畳一枚のスペースがあれば十分といって、3・11後に出会った人を書道の虜にし、この7年で3人目の師範を育てられる姿に感動しました。
この映画祭で、「水俣—患者さんとその世界—」も観ました。環境問題の原点とも言われ、不知火海に36年間も流され続けた有機水銀が原因で水俣病を発症した苦難の歩み。世界に水俣病を知らせることになった記念碑的な名作記録映画、2時間の上映時間があっという間に過ぎました。プロローグの水俣病隠しの話し「魚が売れなくなるから隠し抜いてくれ、代わりに市が“死”を買い取るから」
「腐れて体中の皮が全部はがれた」「嫁ぐ前の娘の死後解剖により脳が、蛸のイボの大きさで黒く焼けこげ脱落していた」との話しなど、死者たちの思い出、遺された肉親の記憶の中にしまわれていた事実が明るみに出されていく、「国とは何ちゅうところか」ともだえる病人に余りの衝撃を受け、会場の呼吸の流れがストップしたようでした。
原発(核)事故による被災者救済サポートのあり方を示唆されたようでした。

3月が近づくと、毎年、東日本大震災・福島第一原発(核)事故のことがずっしりと心に沈んできます。
忘れないことの大切さを今年もあらためて思いました。自分事として。

(野上幸恵 記)

 


「いぶき宿通信」No.24

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.24 2018.2

「原発から這い上がる!」有機農業  −講演と人形劇—

2月4日の日曜日午後2時から、聖心侍女修道会、社会司牧チーム主催の講演会がありました。修道会としても福島支援の一つとして関わってきている有機農業、「えすぺり」の大河原さんご夫妻をお招きして、福島原発(核)事故の語り部としてお二人が取り組んでおられる人形劇も上演していただきました。
大河原多津子さんはご結婚される前から人形劇を学び一人芝居をしておられたのですが、有機農業に憧れ、1985年に有機農業を営んでいた、何代も続く農家の長男大河原伸さんと結婚されてからは、お二人で特に農閑期に人形劇を様々なところで演じておられます。
演目は、いのち、自然、人と人、人と自然との関わりに関するものです。2011年3月の東日本大震災でご自分たちの土地も核事故の被害を受けてからは、語り部として、震災前、被災後、そして未来の生活を3部作の人形劇として脚本を書き、人形を、舞台をすべて手作りで上演しておられます。この3部作を演じていただきました。第一部「過去」第二部「現在」第三部「未来」の合間は、伸さん自作の歌が2曲ずつ歌われました。伸さんは核事故被災時の気持ち、思いのたけを詩に託して歌われました。切ない、やるせない思い、持って行き場のない哀しさ、そして、福島から遠くにいるものの冷ややかさがビシビシと伝わってくるものでした。

① 第一部:過去「パツー」
(トイレはない、パツーのうんこは?)
怪物の「パツー」が、貧しい森の住民においしいキャンディ『おじぇおじぇ』を提供。おじぇをほしがる狸と「何の目的でパツーはやってきたか。ない・・・

②       ③

第二部:現在「太郎と花子の物語」
原木シイタケ農家に起きた悲しみ

④(ねがいは原発のない空)

今より、少しでもいい社会を残すために・・・何をしたらいいんだろうか?

第三部:未来「ソラライズ」
資源のない国ニッポン、核エネルギーを受け入れ、レベル7の事故を起こし、もの、自然、心を破壊された福島の象徴フークン・・・

⑤   ⑥

太陽や風、雨に教えられ、慰められ、再生していく。
自分たちが生まれ育った所は美しい!
自分で産み出した「エネルギ—」は自分たちのもの、大切な故郷、

⑦    ⑧       ⑨ かけがえのない自然の中で未来のあるべき姿を・・・

 

⑩(歌に救われた!)

「正義の味方はどこにいる・・・」

「なみだ〜が、ぽた〜り、ぽた〜り・・・」

心に、滲み訴える   切なく、哀しい・・・

⑪ 福島の方に持って行っていただくものをふくめ、開演前には「アロマルームスプレー」作りもしました。アロマの力がストレスを癒してくれることを願って2012年から毎月欠かさず送ってくださっているボランティアYさんが来てくださっていたのです。共にスプレーをつくる大河原さん親子の微笑ましい姿が、会場設定前の一時にみられました

⑫ 大河原さんご夫妻は丁度1年前2017年2月に「原発から這い上がる!有機農業ときどき人形劇」を出版されました。そこには、大地を愛し、いのちを愛し、いのちの糧となる安全安心な食べ物をつくり続けて来られたご夫妻のプライド、自然との共存の中で自然の中のひとつの命として共存して来られた大切な生活がズタズタにされた苦悩と怒りが実際の背丈で語られています。人形劇の第一部「現在」の脚本「太郎と花子のものがたり」も載っています。
「思いたっちゃんたら吉日」は福島で5人のこどもを育ててこられた多津子さんが、ニュースを通して多くのこどもの問題、親子のすれ違いなどを知り、ご自分の体験が何かの役にたてばと、失敗も含めて孫に語りかけるように「生きる」ことを「人生」を問いかける一つのヒントとして正直にご自分自身の越しかた、見据えている先を書かれたものです。その最後に、人形劇の「過去」「未来」のシナリオが載っています。
「シナリオをつかわせてもらってもいいですか?」との会場からの質問に「どうぞ、どのようにでも使ってください」との寛大がオファーがありました。福島の原発(核)災害の現場での生き方の一つとして多くの人々に伝わり「いのち」を愛おしんでおられる優しさがしみわたることを願っています。

幸せになるための「福島差別」論

2018年1月5日に上記の本が「かもかわ出版」から出されました。その出版記念シンポジウムが1月29日に毎日メディアホールでありました。
本の執筆者は池田加代子、清水修二、開沼博、野口邦和、児玉一八、松本春の、安斎育郎、小波秀雄、一ノ瀬正樹、早野龍五、大森真、番場さち子、越智小枝、前田正治各氏14人。『どっちの味方だ』という問いでなく、「先入観を排除し事実に基づいて事柄を扱う」「被害者の人権の回復をめざす」ことをめざしている人達です。


1. それぞれの判断と選択をお互いに尊重する

2. 科学的な議論の土俵を共有するめざすのは、

                福島の人たちの「しあわせ」

の文字の帯がしめられています。
「放射能災害からの復興とは何か、それは、『災害によって奪われた憲法上の人権を、
1つひとつ回復していくこと』、いうところの人間の復興にほかなりません。そして『差別されずに生きること』を、私は日本国憲法第13条の『幸福を追求する権利』の一つに数えています。避難者の帰還が実現しても、要求通りの賠償がなされても、廃炉や除染が順調に進んでも、被災者に対する差別が続くかぎり『人間の復興』は成就されたとは言えません。」(上記本p.242-243参照)

 

あの日から7年です。忘却のかなたへ薄れ行く、忘れてはいけないことを繋ぎ止め、思いをつないでいくささやかな歩みを・・・