「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.33① 2019.9
第一部
南の方での豪雨災害に心を痛めながら、今年は自然が本当に号涙しているかのごとく止むことのない水害に失われた日常を心に留めながら、横浜教区の5つの教会の信徒20人で福島への旅にでました。
9月2日から4日までの2泊3日の巡礼の旅でした。核事故によって失われたおだやかな日常、の悲嘆のなかにも、土とともにいのちとともに、日常を復活されようとしておられる人々に出会う旅でした。バスの乗車とともに祈りに始まり、バスから降りる前の祈りに終わる、本当に巡礼でした。
「放浪は目的なくさまよい歩くこと。巡礼は目的を持って踏みしめて歩むこと」との小笠原神父様の言葉を今も噛みしめています。
常磐道
常磐道を北に向って走りながら、景色の移り変わりがそこで生活している人々の日常をも変えるのだと感じました。
常磐道で、今までとは異なった情景に身を置くことになりました。ペースカーとかいた幕をトラックの運転台の後ろに貼付けて走っているフレコンバック運搬トラックの列。震災の年の夏の光景が重なりました。あの時はフレコンバックのトラックではなく、自衛隊のトラックの行列。パーキングエリアで一緒になった隊員に話しかけていろいろ聞いたことが昨日のように思い出されました。これらのトラックの間に挟まれての走行に複雑な思いを持ちました。いわきナンバーでしたが、いわきより南から走ってきました。北関東からなのでしょうか?どこから来てどこへ?

飯館村
飯館村に入り、「までい館」の前で長谷川花子さ
んにご同乗いただき、まずは昼食。原発立地の南相馬市に合併することなく、美しい自然と「までい」な生活を営む理想をかかげて、まさしく理想的な村づくりがなされていた村です。
避難解除とともに帰村が勧められ、村をこよなく愛する人、ともに生きて来た土を愛でている人々が村に戻り復活を夢みておられましたが、現実はそれはそれは厳しいものでした。真っ暗闇のトンネルの中で、希望を繋ぐことは至難の業であると痛感しました。そんな中で、土のいのちを保つために蕎麦づくりをはじめられ、「までい」に準備された手打ち蕎麦、昼食の一品一品が、暖かいいのちを届けてくれるようでした。
本当に美味しかったです。体調を崩されている店主さんが酸素ボンベを背負いながら、準備くださった食事のありがたさが身に沁みました。

【「までい」とは「手間ひまを惜しまず」「心をこめて」「丁寧に」「慎ましく」という「スローライフ」のこと】
飯館村は全戸の1/3が旧満州などからの引き上げで、県内でも気温が数度も低い寒冷の地で、木を切り、土地を耕し、半世紀かけて「日本一美しい村」としての麗しい里を作り上げた場所です。引き上げ者は阿武隈山系の飯館にしか土地を見つけられなかったのです。人口流出、子供も少なかったので、エンジェルプランや男性の育児休暇などもいち早く取り組んでいた村です。そして、「若妻の翼」は村の補助金40万円に自己負担10万円でヨーロッパ研修旅行に送り出したのです。添乗員もつけずに。自分たちで判断しながら周り、自主性や積極性を養う研修旅行でした。一人の自立した人間として生きていくためでした。
もう一度村を開拓し直す。戦後と同じ。20年30年後に帰って来た孫、ひ孫たちに、じいちゃん、ばあちゃんは日本一の村を復活させたと次世代に美しい村を手渡したい人々は、絶望から立ち上がる強さを持っておられます。その絶望の中に希望の光を見ているのです。「希望」は「自分のため」でなく「次世代のため」未来を見つめている中からうまれているようです。
花子さんもこの「若妻の翼」で研修旅行に行った一人です。

原発立地地区が合併して南相馬市になる時に飯館村は原発に頼らない村づくりを目指し村のまま存続しました。原発交付金とは全く無縁だったこの小さな村が、長い時間をかけて知恵を絞り、障壁を乗り越え育てて来た「までいライフ」がたった一度の核事故(原発事故)で全てが水泡に帰したのです。事故による放射能被害がよりによって飯館村を襲い、被災への補償金が・・・それがどのように使われていくかということが・・・
本当に原発事故が壊したのは、人々が長年耕し、培って来た「日常」なのだということをいたい程痛感しました。
小高同慶寺
飯舘村から、小高の同慶寺に行きました。同慶寺は相馬藩の菩提寺として田中徳雲さんが住職として守っておられます。菩提寺なので、歴代の相馬の藩主が休んでおられるお墓が並んでいます。
田中ご住職のお話は何度聞いても心を打たれます。原発について学び、知識を持っておられたご住職は、あの大地震のあとの津波で停電になり、原発で電源喪失すればメルトダウンは避けられないと、いち早く避難を決断されました。逃げるように周りの人を誘っても、素直に逃げてくれる人はいなかったと。車に乗れる人数から、ご母堂を一人置いていかざるを得ない厳しい現実にどれほど心を痛められたことでしょうか。福井に避難され、ご住職だけが小高に戻られ、家族が離ればなれの生活。ご住職の福井と小高の往復の生活、父親のいない家族のストレスなど、限界を迎え、実家のあるいわきへ再避難されました。その時の子どもたちの抵抗を親の権威で車に乗せたことを今でも考えられるそうです。再度の引越に素足で逃げて木々の茂みにうずくまって泣きながら抵抗する子供を、謝りながら引きずり抱えて車に乗せて走ったことは、ご住職の脳裏に鮮明に蘇っているようでした。各地に散らばって避難された檀家さんたちのケアのために走り回れた距離は半端ではありません。地球7回半程にもなるとか。生きる望みを失う程の苦しみと悩みの中にある檀家さんたちに寄り添うために、まさに身を削って仕えておられる姿が神々しかったです。

お話を伺う回を重ねる毎にご住職のこの未曾有の災害に対してのお考えが深まり、神さま(仏さま)が私たちに与えてくださっている貴重なチャンスとして、この災害を捉えられ、自らの生活を変えるようにとの呼びかけに真摯に、具体的に向き合っておられる姿が滲み出ていました。お子さんたちは現代社会の子どもたちなので、父親のご住職の生き方、生活のありかたをまだまだ理解できない所があるのは否めない現実です。が、父の背中を見て育つ子供が大人になったとき、きっと「ア、そうだったんだ!」と分ってくれることを信じておられる信頼も伝わってきました。具体的な日常生活が自然との共存、自然の恵みを大切に生きられる徹底さに背筋が伸びました。東京ではできないかもしれないのですが、車も廃油とガソリンの併用で走っておられます。

第一日目を終え、今日は原ノ町駅前のホテルに宿泊。
原ノ町駅は、相馬野馬追とマッチした駅舎。(続く)
「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.33② 2019.9
第二部
国道6号線
昨日の余韻を心に、巡礼二日目です。
原ノ町駅前を出発して6号線を南下。帰還困難区域を通過する巡礼です。バリケードのある6号線を通るのがはじめての人が多く、車中の空気は緊張していました。シ〜〜ンと静まりかえる車中。旅人の心は様々な祈りが捧げられているようでした。8年前から手が付けられていない、人の住んでいる痕跡のない家々、人の息づかいを受けていない環境は、ぽっかりと穴があいたようでした。それでも、植物はそれぞれの営なみを続けているのがいじらしく感じられました。

そんな道路脇では、労働者が・・・
その姿を見た私の目は点になりました。
車の窓を開けてはいけない。二輪車も、歩行も通行を禁止されている。車の停車も許されない。信号機は黄色が点滅している6号線で写真のような作業員???


廃炉資料館
昨年オープンした、廃炉資料館をたずねました。
映像をみながら、廃炉がどのように行なわれていくのか分りました。日頃の疑問を、説明をしてくれた女性にぶつけ、別の男性が細かな説明で補助をしてくれる場面が何度かありました。
資料館の説明の職員に問うても仕方のないでも、悶々としている疑問はやはり口をついて
出てくるのでした。「こういうコメントがあったということを、上の人に伝えてくれればいいのですよ」と女性職員をフォロー。飯舘村で線量計が二つある理由などの説明を聞いているので、素直に「あ、そうですか」と受け容れがたい状況を事故後の対応が作り上げてしまっています。素人が自分で学び、判断し、行動することの難しさを今回も感じました。「核」そのものは、自然界に存在するもので悪ではないのでしょう。しかし、人間によって間違った使い方をされてしまった「核」、分裂と不信を生じさせた「核」は、「悪」ではないでしょうか。
今回資料館で新しい体験をさせてもらえました。全面マスクでの原発労働者の話しをよく耳にしていました。あの異様な姿のマスクを何度もテレビで見ました。現物を目にしたのもはじめてでしたが、それをかぶってみたのは、勿論はじめてでした。ぴちっと密閉してマスクをかぶったわけではないのですが、呼吸は以外と楽でした。旧式のものと新式のものが展示されていました。改良されて新しいものは軽くなっていました。

第一原発の敷地の模型が作られていて、その前で説明を受けました。

ボルト式の貯水タンクを溶接型のタンクに。中の汚染水を移し替えているのですが、最後は作業員の手作業。線量は作業をしても問題ないほどにアルプスで核物質を除去してからの水といわれても、う〜〜ん??という感じでした。
とにかく、全てが未知の世界で、今後どのような健康障害が出て来るかも分らないわけです。
私が気になっているのは、3月12日からのあのとき何も知らされないまま、日常生活を送っていた人たちのことです。あの時に、放射能が流れ、雨や雪で地に落ちた地域も含めて、半径ではなく、そこがどこかはスピーディのデーターを見れば分る筈です。放射能の影響を受けた地域にいた全ての人に、そして原発労働者、除染労働者に「被曝者手帳」のようなものが発行されるべきではないかと思っています。データーはあるのですから、誠意を尽くしていのちを守っていくのが尊厳ある人の在り方ではと。「直ちに健康に影響はない」とすまされていること自体に不信を募らせるのです。あの時の被曝がどうだったか。子供たちの甲状腺癌が増加しているというのは、あの時の被曝の影響ではと思うのは常識的な思考経路から導きだされるものではないでしょうか。原因結果が分らないということも、謙遜に受け止めて、明確な原因説明ができないから、なかったことにするのは、大きな?です。今こそ、人は自然と神の前に謙虚になるチャンスを与えられているのだと思いました。
Jビレッジ
事故収束作業の前線基地であった時から、何度も訪れていたJビレッジです。
すっかり、サッカーのピッチに変身しているかつての前線基地は、あの時のことを知らなければ、ここがどんなに緊張した場所であったかということを想像することができないと思われました。大学生がピッチで大会をしていました。
Jビレッジの中も、ピッチも放射線量は管理されていました。が・・・

福島第一原発までは20キロ。第二原発までは10キロしかないのです。今後事故が起こらないとも限らないのですが・・・日本中、海岸線のいたるところに原発はあるのです。その意味では、どこに住んでいても安全の保証はないのですけれど。
Jビレッジで昼食。
広野町振興公社「バナナ農園」
広野町も核(原発)事故後全住民が避難を余儀なくされました。が、他の地域と比べて線量は低かったこともあり、いち早く帰還を決断し、お米の栽培も早くから取り組まれました。双葉地域の新たな特産品としてバナナ栽培が町100%出資で始められました。原発の影響で使われていなかった800平方メートルの園芸用ハウスを利用しての栽培です。社長は町役場に勤務していた人で、事故後の住民の苦悩、悲しみに丁寧に関わって来られた人です。「地獄をみました」との言葉は、とても重く、今も私のこころの底に沈んでいます。「人は追いつめられると、狂気になれるのだ」という言葉とともに。それほどの苦悩をともにされたことから、住民が生きていくことのできる術をなんとか作り上げようと努力されていることが伝わってきました。
住民の夢、希望、前を向いて挑戦して生きる生き甲斐づくりを目指されていました。

あと1ヶ月遅く訪ねていれば、バナナの収穫。国産バナナを購入できたのに。残念でした。
今のところ1本650円の超高級品です。

(続く)
「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.33③ 2019.9
第三部
「NPO法人わいわいプロジェクト」
広野町綿花畑
雨の降りしきる中、広野町内をバスのなかから視察しました。バスを降りることができなかったことは残念でした。以下の写真は下見に行った時のものです。
広野町は、原発(核)事故の前日、津波で破壊されていました。津波減災のために、跡地を防災緑地として整備されていました。そこには7万本の木が植樹され、お花が植えられていました。


広野町の沿岸部に高さ10・7メートルに嵩上げした県道と防災緑地。海岸沿いの8・7メートルの防潮堤と合わせ、津波被害を軽減する多重防御の役割が期待される。同町を襲った津波は約9メートルとされ、高さ6・2メートルの防潮堤が損壊(ネットより)

塩害に侵された耕作放棄地に土地の荒廃を防ぐ意味も含め、塩害に強い「コットン」栽培がされています。ここで作付けされているのはオーガニックコットン。このコットン畑にも自然の仲間が闇に乗じて訪れた足跡が残されていました。また、広野町には260haの田んぼがあり、そのうち160haが再開されていますが、田んぼアートもつくられていました。

「とんぼのめがねは、ま〜〜るいめがね♩♪」
という童謡をご存知と思います。これは広野町の額田医師が往診に出かけた際に、子どもたちがとんぼと遊んでいた姿を見て作詞したものなのです。それで、広坊はとんぼなのです。
広野町の拠点づくりを目指してのプロジェクトです。広野町は町を復活させるためには次世代の人づくりが大切なので、教育に力を入れ、「広野未来学園」をつくり、生徒の半分は地元から、半分は全国から集まっています。寮も立派な寮が準備され、体育館もスポーツ独自のものが別に準備されています。町として「子ども園」をつくり、民間に委託しています。住民が夢と生き甲斐をもって前を向くことのできる環境づくりに取り組んでおられることを知りました。
また、この学びのために案内をしてくださった代表は、実はあの歴史的な時に第二原発で働いておられた方でした。第二原発の話しはあまり耳にする機会がありませんでした。が、大変だったということは風に乗って伝わってきましたが・・・実際にお話を伺い、危機一髪だったということが分りました。あの時、身の危険を犯して第二原発を冷温停止に持っていってくださった方々に対してどれだけ感謝をしてもし尽くせないと思いました。あの冷温停止に失敗していたら、今頃、私たちはどこにいるのでしょうか?関東全域、人の住むことができない場所になっていたということです。
第二原発についても、もっと事実を伺いたいと思いました。
この後一路、湯本、元禄からの老舗温泉宿「古滝屋」へ。従業員130人を抱えるこの老舗旅館も実は震災の大きな影響を受け、大きな被災で廃業を真剣に考えなければならないくらいの所まで追い込まれ、残ってくれた8人の従業員と社長、若女将で、ここまで繋いでくれたご先祖のことを思うと、ここで廃業はできないと踏ん張られたとのことでした。厨房が使用不能な程のダメージを受けたけれども、幸いに温泉の方は大丈夫だったので、取りあえず、素泊まりで営業をされていました。
そんな中でも、社長さんはこの未曾有の震災で一番困難な状況にいるのは、障害を持っている子どもたちでしょうとの思いから「ふよう土」という団体を立ち上げ、活動をはじめておられたのです。大人が子どものふよう土となって、育てていかなければいけないというコンセプトです。その考えに魅せられて、「いぶき宿」は、この宿で泊めって頂くことにしました。学生ボランティアのためには、建築科の学生たちの設計でプライバシーが保てる、蚕ベット(?)のようなスペースを、使っていない大広間に設置し、低額でボランティア学生に宿泊を提供するということもされていました。今回は夕食を提供してもらえました。厨房が整備されてシェフにも戻ってもらえたのが昨年の11月、7年半すぎていました。その間のご苦労は計り知れないと思います。

いわき教会でのミサ
巡礼のミサをいわきの教会で捧げました。なんと、仙台教区の神学生が来ていました。小笠原神父様に神学校で教えてもらったとか。嬉しいサプライズでした。また、彼自身の震災の体験を分かち合ってもらえたのも嬉しかったです。
いわきオリーブ園
「いわきオリーブプロジェクト」のオリーブ園に行きました。


NPOいわきオリーブプロジェクトが目指すもの
特定非営利活動法人いわきオリーブプロジェクトは、オリーブ研究活動を通して地域や社会福祉への
貢献に関する事業を行い、住みよい地域環境作り、地域福祉への理解促進に寄与することを目的(定款、第3条)とし、目的を達成するため次の事業を行う。
①地域農業支援および農業生産事業
②農業体験の企画・運営
③農村地域振興の企画・調査・研究
④就農支援活動
⑤地域の観光名所の情報提供
⑥観光地同士の相互協力や連携、交流の活動
⑦この法人の目的を達成するために必要な事業
(ネットより)
お話を伺い、ボランティアとの連係、子どもたち、地域にも開かれている活動、そして、オリーブを通して日本全国と繋がることを目指しておられることに感銘しました。オリーブ加工品の品々を求めました。はじめて「オリーブ茶」を飲んでみましたが、しっとりと美味しかったです。また、オリーブは雌雄別木であり、雌雄で植えなければ実はできないこと、空気受粉であることも学びました。このオリーブ園には、種類の違うオリーブが植えられていました。
中野区の地域密着タウン情報誌「おこのみっくす」がいわきのオリーブを支援する「オリーブ羽ばたきの会」を立ち上げいわきとの交流を深められ、2016年4月に中野で「オリーブの祭典」を企画。JR中野の駅長さん発案の鉄路で繋ぐ「オリーブ列車」が4月16日に走りました。この日を記念して9時9分いわき発の常磐列車にはオリーブ特別ヘッドがつけられました。
松戸、上野、東京、新宿、そして中野のそれぞれの駅で駅長さんにオリーブの苗木を贈呈していく交流列車でした。オリーブがいわきと関東を結んだ列車は、これからの繋がりのスタートを切ったオリーブの旅だったのでしょう。

今回の旅は巡礼の旅。本当にこの巡礼の旅は、3日間で終わるのではなく、これからずっと続いていく旅であると感じています。
感謝をこめて(野上)