「いぶき宿通信」No.36

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2020 N0.36

Merry Christmas and Happy New Year!

福島訪問

11月、コロナ感染第2波が落ち着き、第3波が来る前に、意を決して福島を訪ねました。

できる限りの感染予防を持って旅に出ました。感染させない、感染しないを心に固くとめてマスク、アンチウイルス・スプレー、フェースシールド、体温計とコロナ対策七つ道具を揃えて、神経を張り詰めての訪問でした。

ご一緒に活動させていただいている皆さんを訪ねた時、とても喜んで迎えてくださったことにホッとしたと同時に、深い感謝を覚えました。

エゴマ農家の渡部さんのところに新しい家族が増えていました。ヤギさんが来ていて、その子に子ヤギが生まれていました。

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どこでも手に入れられない「エゴマ蜂蜜」を求めたかったのですが、残念なことに今年は取れなかったとのこと。理由を聞いてちょっと恐ろしくなりました。エゴマに花の付きが悪かったとのこと。それで、蜂蜜だけでなくエゴマ油も品薄。なぜ、花の付きが悪かったのか?どうも自然現象が関係しているのかもしれないと。10年前のあの東日本大震災の前2・3年も色々 と例年にない変化が起こっていたという話を聞かせてくださいました。止まる所を知らないコロナウイルス感染拡大、氷河の解凍、異常気象などなど。例年と異なる事象があまりにも多いです。環境異変に対して真剣に自らの生活様式を変えなければとあらためて気を引き締めました。大河原さんとは、ご自宅の古民家でお話ししました。コロナでお店の方は大変でいらっしゃるようですが、元気に過ごしておられホッとしました。堀越の“お人形様”の前の小川には赤い橋が架かっていました。震災後初めて見た橋、10年という年月を感じました。

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また、「錦糸かぼちゃジャム」を作ってくださっていた稲福さんをお訪ねして、可愛いお嬢ちゃまに初めて会えました。可愛く手を振ってくれたことが今も目の前に浮かびます。笑顔がステキな母子でした。子どもの笑顔は、コロナのストレスも心配も忘れさせてくれる魔法ですね。

宿泊はいつもの通り、湯本の「古滝屋」さんです。今回は特別にこのコロナの状況の中での福島について里見社長さんからお話を伺うことができました。今後の私たちの関わり方についても的確なアドバイスをいただくことができました。本当に感謝しています。

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次の日には「いわきオリーブ」さんを訪ねました。注文が入っている品々の相談、昨年の水害で受けたオリーブ畑の状況などを伺いました。

 

「東日本大震災・原子力災害伝承館」

2020年9月20日にオープンした「東日本大震災・原子力災害伝承館」については前号でも書きました。が、今回の福島訪問の一つの目的は自らの目でこの伝承館を見ることと、双葉町に入ってその場が語りかけてくることを感じることにありました。

双葉町には今まで入ることができませんでした。緊張感が私たちを包みました。6号線を走りながら、いつものように、道路に設置してある線量計、私が持っている線量計とにらめっこです。大熊町、双葉町と近づくにつれて線量計は上昇していきました。車の中ですが・・・

0.84、0.92、1.06、1.18、1.29 、1.72、1.87、 1.94 、2.00 全身に力が入ってくるのがわかり、身構えているようでした。

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双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」

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の前の広場に設置されていた線量計は0.055

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を表示していました。

大型バスで、高校生と思しき生徒たちが多数、見学に来ていました。

ちなみに、昨日新幹線で郡山駅に降りた時の、駅を出たターミナルに設置されている線量計は0.119と表示していました。

初めて6号線の大熊の出口で降りました。大熊の出口も使用可能になっているんだと。

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双葉町に入って、「あら、除染のフレコンバックがないですね!?もう片付けられたの?」とんでもない、10年経った今やっと除染が始まったばかりだったのです。取り壊し中の家も。もちろん“伝承館”への道筋、伝承館の周りは綺麗に整備されていましたが。

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道中除染トラックが何台も連なり、多くが集結していました。

 

コロナ感染で大変だった1年、1日も早い感染終息を願い、また、皆様の支えに感謝を申し上げます。どうぞ恵みに満ちた新年をお迎えくださいますように。私たちは自分たちにできる小さなことを来年も地道に続けていきます。新しい年もどうぞよろしくお願い申し上げます。感謝を込めて  野上幸恵

 


いぶき宿通信 No.37

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2021 No. 37 2021.4

ご復活おめでとうございます。

御復活

第4波が襲うかもしれないと思われるの前の4月5日〜6日で福島を訪ねました。

昨年11月に訪ねてから数ヶ月ぶりでした。

1日目は生憎の雨で請戸港まで行くことができませんでした。久しぶりに6号線を走り、あいも変わらずトラックの多いことに改めてびっくりしました。また、帰還困難区域への立ち入り制限、6号線沿いの進入禁止のゲートが旧態以前として続いていたことに、厳しさを感じました。

双葉駅

今まで行ったことのなかった双葉町の駅にも行ってみました。周りだけは、特定復興再生拠点区域指定になっていますが、他は帰還困難区域、駅より海側の一部分が中間貯蔵施設用地として確保されています。

双葉駅

綺麗な駅が出来上がっていました。駅の隣には、町コミュニティーセンターが併設されていました。しかし、住民は一人も帰ってきていません。

5月ごろには復興住宅の完成が・・・との話を聞きました。

また、この駅から「東日本大震災・福島原子力災害伝承館」行きのバスが出ています。

双葉駅伝承館行きバズ

バスに乗る人は一人もいませんでした!

ぽてと

3月12日にNHKドキュメント72時間「福島・浪江 小さなお弁当屋にて」で「ぽてと」が放映されました。福島原発に近い双葉郡浪江町にあるお弁当屋さんです。町内全域が避難指示区域となり、2017年3月に「帰還困難区域」以外で避難指示が解除され、原発から8キロの地点で2018年5月に「ぽてと」はオープンしました。これをみて是非、「ぽてと」に立ち寄りお弁当を買いたいと立ち寄りました。これは喜ばれる!!という雰囲気のお惣菜、お弁当。美味しかったです。

浪江ぽてと

大野駅に立ち寄りたかったのですが、表示に従い6号線から道を折れたところ進入禁止の表示。びっくりしてUターンでした。

浪江駅には震災後駅舎改築される前から訪れていました。常磐線がこの駅まで開通した時にもここで降りてバスに乗り継ぎました。

今回、駅で復興のために働いている人に出会いました。新しく目に入ってきたのは、駅前に建てられていた、「高原の駅よさようなら」作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一

浪江高原の駅

「懐かし〜〜い!」でした。この碑の前に立つと、この歌が流れてきました。

 

夜ノ森

富岡に向かって走り、夜ノ森の桜がどのようになっているかを見ようと思いました。しかし、国道6号線から「夜ノ森の桜並木」の道には進入禁止のバリケードが。入ることができませんでした。後で聞いたところによると、国道からは入ることができないようになっているとか。常磐線が全線開通しているので、夜ノ森駅での乗車下車は可能になっているので、駅の方からは入れるようだとか・・・なんとも複雑な区域わりに、ウ〜〜ン!????というマークが浮遊しました。富岡駅は津波に大きく壊された後から何度も訪れていたし、富岡の駅から6号線までは歩いてもいますので、今回は素通りして、次の目的地へ急ぎました。

いわてオリーブ

仕入れのために「いわてオリーブ」さんを訪ねました。今回、素敵な人に新たに出会いました。オリーブのパスタを開発した当事者にお会いできたのです。どのように商品開発をされているかというお話も伺えました。

そして、この「オリーブパスタ」が2016年には「福島おいしい大賞2016」で麺部門優秀賞を得たのです。はい、とてもおいしいです。

オリーブ賞状

実は、今回はこのパスタ仕入れでした。

 

田村市

翌日6日は、ジャムの稲福さん、エゴマの渡部さん、「えすペリ」の大河原さんを訪ね、近況を分かち合いました。

三春の桜はまさに満開でした。こんなに良いお天気に恵まれたのは、今までで初めてぐらいでした。磐越道から会津の山並み(?)まで見えました!

大雷神社大雷神社の桜

富岡町3・11を語る会

郡山の事務所で語り人をしておられる渡辺さんからお話を伺いました。

とても濃いお話で、事務所の閉鎖の時間も忘れて思いがけず長居をしてしましました。

心に沁みるお話だったので、次回に続けます。

 

語り伝える使命がある

   私たちは忘れんぼだから・・・

 人災である原発事故を語り続けなければならない。私たちが何十年、何百年と続く語り部の礎を築き、避難者の思いを届けていきます。

 一人でも多くの方に震災の真実、被災者の現状を正しく知ってもらうため、私たちは語り続けます。

 でも皆さん、「語り人」とは、私たちの声を聞いてくださったみなさん一人ひとりのことです。

私たちの声は周りの人に伝えてください。

それが一番の願いです。

 聞いてくれてありがとう!

 知ってくれてありがとう!

      富岡町3・11を語る会 代表

              語り人 青木淑子

       (「富岡町3・11を語るかい」名刺裏より)

4/13 8:15 ライン速報
政府は福島第一原発処理水海洋放出を正式決定
の速報が入ってきました。漁協従事者の反対を押し切っての決定!環境破壊、海は地球上余すところなく繋がっていることを考えると・・・「いのち」の源である海がトリチウムを浴びせかけられ状況で、全ての「いのち」がその影響を受けることは確か!
「いのち」の涙、泪・・


「いぶき宿通信」N0.34

 

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2020 N0.34

10回目の3月11日

2011年3月11日、あの日から10回目の3月11日です。2020年3月11日、この日はコロナウイルスのバンデミックで世界中が、目に見えない細菌にどのように対処していけば良いのか暗中模索を続けていました。今もそれが続いています。そのために各地では、感染拡大を防ぐために東日本大震災の追悼式典の自粛が求められ、縮小しての開催でした。

3宗教合同で追悼・復興祈願祭

大災害が起こると鎌倉在住の宗教者が宗教、宗派を問わず一堂に会して共に祈る歴史的な営みがありました。

2011年3月11日のあの大震災を体験した私たちは、2011年4月11日に第1回の追悼・復興祈願祭を3宗教でおこないました。この時から可能な限りこの祈願祭に参加しています。今年は10回目の祈願祭でした。

第1回は神道、鶴岡八幡宮が会場、次回は鎌倉大仏殿のある寺、第3回はキリスト教の雪ノ下教会と会場は3宗教で順番に持ち回りです。

10回目の今年は鶴岡八幡宮でした。

今年はコロナウイルスの大流行のために、規模縮小、宗教者だけでの祈願祭となりました。

神道、仏教、キリスト教の鎌倉在住の宗教者が70名以上八幡宮舞殿の前に集まり、それぞれの宗教の方法で舞殿で祈願が捧げられました。

他宗教の宗教者もその祈願に心を合わせ唱和しました。カトリックからは雪ノ下教会と大船教会の4人の神父がたと聖母訪問会、聖心侍女会

とメリノールのシスターたちが参加しました。

神父様がたは、韓国人、インド人、アメリカ人、

 

 

日本人と多国籍で、それぞれの司祭が日本語で

聖書を朗読されたり、祈られたりと八幡宮に国際色豊かな(日本語ではあっても)祈りが捧げられました。(NHKニュースwww3.NHK.or.jp/shutoken-news20200311

NHK首都圏ニュースでも報道されました。)

シスターと神父と爆弾

3月15日に聖心侍女修道会の五反田修道院で「社会司牧チーム」主催の「シスターと神父と爆弾」の自主上映会を開催する予定でした。が、コロナウイルス流行のために止む無く中止になりました。しかし、数人で鑑賞しました。

それに合わせて、この自主上映会を勧めてくださった森俊秀僧侶がご自分が『浄土』にお書きになった記事を送ってくださり、添付する事をご快諾くださいましたので、pdfで添付いたします。

「シスターと神父と爆弾」は生きとし生けるものの「いのち」を破壊する核兵器に対して、「いのち」をかけて非暴力で訴えかける行動を実行したシスター、神父、信徒の信念に基づいた活動です。鑑賞し終わり、心の中には静かな、深い信仰と「いのち」への底知れない愛が広がりました。何度投獄されても、めげずに「いのち」を守り抜こうとする姿に創られたものを愛してやまない神の姿の写しを見るようでした。

コロナウイルスの流行が治りましたら、上映会を再度企画しますので、皆様是非ご鑑賞くださいますようにお誘いいたします。

福島県いわき市の外国

1月半ばにいわき市へ行ってきました。フィリピン人のコミュニティの話を聞きに行きました。ララミュの近くにお店(サリサリストア)を出しているフィリピン人に震災の時の話を聞きました。いわき港に入港した船の船員たち(フィリピン人)が店に来ていて、彼らの話も耳にすることができました。

いわき市のサリサリストア

貨物船のようです。今後、フィリピン人のシスターが、いわきのフィリピンコミュニティーと関わっていくことになり、震災後を生きている人たちに寄り添っていく事を期待しています。また、ベトナム人のコミュニティへの寄り添いも始めています。

原発関連の仕事をしている外国人の話も耳にしています。日本社会の中でベトナム人同士での結婚、家族を作っていく人たちも増えているようです。

富岡

今回、3人をご案内して富岡にある「廃炉資料館」を訪ねました。私は今回で4度目でしょうか。毎回、新しい発見があります。

今回は車ではなく、電車での旅なので、富岡駅から徒歩で6号線まで出る間の町の様子をつぶさに見ることができました。

綺麗に整備された駅前。東京からくるものにとっては、ハード面の立派さと閑散としている駅前の様子がなんともしっくりいかない気持ちでした。お二人の女性(高齢者)が手押しの車を押して、道を歩いてくるのが見えただけです。

富岡駅前の高齢者         富岡復興住宅

復興住宅裏の川

一戸建ての住宅や集合住宅が立ち並んでいました。もちろん線量計も設置されていました。

6号線沿い、「廃炉資料館」と道をはさんで立派なスーパーが。そこで昼食をとりました。

食事をしている多くの人は働きに来ている人たちでした。廃炉資料館前のスーパー  スーパー内で昼食

常磐線開通

あの日からまる9年を経て、10年目を歩み始めて間もない3月14日、浜通りの大事な足が上野から仙台まで繋がりました。

長い年限をかけての歩みでした。区間が繋がるたびに、つながったところまで常磐線に乗って現地に出かけていきました。今回もすぐに出かけたかったところですが、コロナウイルスの流行で、見合わせました。が、できるだけ早く、帰還困難区域の残っている地域を通る常磐線で現地をおとずれたいと思っています。様々な想いが交錯している場所だけに現実を肌で感じ、見えなくされている物にも目を向けたいとの思いが募ります。

オリンピックが開催されることになっていれば、すでにJヴィレッジを聖火が出発し、福島を走っているはずです。その陰に見えなくされていることも多々あることは前回の訪問でも耳にしてきました。

3月23日の共同通信社の記事に、

『福島県のサッカー施設「Jヴィレッジ」に隣接する楢葉町営駐車場で空間放射線量が比較的高い場所が見つかった問題で、一帯を福島第1原発事故の収束作業の対応拠点として使った東京電力は23日、施設返還の際に除染をしていなかったと明らかにした。施設は東京五輪・パラリンピックの聖火リレーの出発地点。

環境団体が昨年10月に施設周辺を調査し、環境省に線量の異常を伝達。同省から除染を求められた東電が調べたところ、グラウンドなど施設内部に異常はなく、楢葉町営駐車場で毎時1.79マイクロシーベルトが計測された。除染は昨年12月に実施済み』

というものがあり、唖然としました。


「いぶき宿通信」N0.35

 

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2020 N0.35

コロナウイルス・パンデミック

コロナウイルス パンデミックの中で、東京・関東から地方への旅行が制限され、ステーホームが求められている時に、心は流行っても東北を訪ねることは憚られました。自分に何の症状もなくても感染しているかどうかわからない中、ウイルスを持っているかもしれないという前提で行動してきました。少なくとも、当地の人、出会う人に感染の可能性をなくすことを考え、メールなりでの関わりにとどめ、心に留め続けてきました。新聞、テレビ、ネットでの情報などへアンテナを張りながら・・・

「東日本大震災・原子力災害伝承館」

2020年9月20日オープン

「双葉町「東日本大震災・原子力災害伝承館」からのリポート。9月20日開館の東日本大震災に関連した福島県の追悼・伝承施設。5月にオープンしたいわき震災伝承みらい館と同じく、 修学旅行のほか、被災地を訪ね歩く「ホープツーリズム」の新たな拠点になると期待されています。東京電力福島第一発電所の北側約3キロにあり、3階建てで延べ床面積は約5,300平方メートル。展示エリアは震災・原発事故の時系列に沿った6 つのゾーンに分かれ、県が資料として収集している「自治体のメモ」や「公文書」、「被災者の手記」など約24万点の内、津波で被災した郵便ポストやガードレール、 野生生物に荒らされた住宅のふすまなど、約150点を展示。中継では、施設の紹介、その意義、将来の活用方法などについて伺います。また、 展示されている資料の紹介なども行い、地震・津波・原発事故という前例のない複合災害について改めて考えてもらうきっかけになればと思います。」

「rfcラジオ福島」ホームページ毎月11日の生中継・双葉町「東日本大震災・原子力災害伝承館」 2020.09.11(金) 13:20~13:28より)

ステーホームの中での自然との関わり

コロナ下でのステーホーム中、毎週友人と庭の草取りに励みました。

自然の中で、太陽の下、熱中症に気をつけながらの作業は心地よいものでした。

たくさんの発見がありました。

「雑草を取ればいいんですね!」

「雑草という草はないんです。みんな名前があるんですよ」

「あ、そうなんだ。雑草という草はない。なんと大雑把な見方だったのだろう」と反省至極。

雑草というのは、人間の勝手な視点からのネーミング(草にしてみれば、すこぶる心外であり、侵害なネーミング。)

〈こんな石ころ、がれきだらけの草を抜くのはたいへん。〉〈草むしり、草刈りでいいわ〉

「根からちゃんと抜かないと、来年また、出てくるでしょう!」

「は〜〜い」と言いながらも〈草だって、かわいそうですよね。来年はまた、来年。根から抜くと根絶。これってジェノサイド???〉今まで考えなかったことまで考えたりした庭作業でした。

そんな中で、珍しい小さな昆虫にも出会い、「エッツ、こんな虫がいるの?これ何かしら?」と、童心にかえりました。一瞬、蜘蛛と思って、「脚は何本?」「6本」「じゃ、蜘蛛ではないわよ、昆虫だけど、本当に蜘蛛みたいに見えるわね」

 

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これはカメムシ                        こちらは蜘蛛

(カメムシの一種の                            (アダンソンハエトリの♂)

アカザシガメの幼虫)

どちらも関東地方にも住んでいるムシでした。

ネットで見つけた記事                 

庭で遊びたい小学生 VS 絶対に生えてくる雑草 4年間の戦いをまとめた自由研究「雑草全滅大作戦」が一大スペクタクル

9/3(木) 21:03配信

 「(略2017)庭で遊びたい一心で、塩水や除草シートなど、毎年試行錯誤を重ねてきました。しかしどれもうまくいかず、レポートは毎回「自然の力には勝てない。今のところ、自分たちの力で草を抜くしかない」と結ぶはめになったといいます。(略)長女が中学に上がり、長男が単独で臨むこととなった3年目(2019年)も、結果は例年と同じく失敗に。それでも彼はこのとき、「土が固いと雑草が生えにくくなる」可能性に気付きました。(略)彼自身もまもなく小学校を卒業するため、挑戦も最後になるだろうと、研究は万全を期して冬(2020年1月5日)からスタートしました。「土踏み」の効果を確かめる対照実験として、庭の半分のみを毎日欠かさず歩き回ることに。もう半分は何もせず放置します。2カ月ほど経ったころ、歩き回った側だけがほぼさら地になり、放置した側には草が生い茂るという、明白な効果が現れました。この結果を当時ぺこさんがツイートで紹介したところ、大きな注目を集め、農家からも「発芽して根がつく前に草を殺す有効な除草法」と評価されています。(略)緊急事態宣言に伴う休校により、実験はますます捗ったようです。しかし、敵ながらさすがと言うべきか、踏んでいないエリアは草ぼうぼう。夏にはどうなることやらと、家族を震えさせます。そんな不安は的中し、5月には雑草が急成長。踏んでいる側にまで芽吹き始めてしまいました。6月になって休校が解けると、実験に使える時間も少なくなり、庭はじわじわと草に浸食されていきます。やはり人類は自然にあらがえないのか……?  (略)長男は最後の仕上げとして、「途中で踏むのを止めたらどうなるか」を検証するため、「踏まないエリア」を増やしました。すると約3週間で、放置されたエリアには草が繁殖。元の木阿弥になってしまいましたが、「踏む効果」自体は証明されたといえるでしょう。ただ、研究の成果は見えたものの、「踏み続けない限りは生える」雑草のたくましさに感じ入るところがあったのか、考察は「“雑草”かどうかを決めるのは、いつだって人間の心」と、哲学の領域へ。レポートは「今まで雑草と戦ってきたのが間違いだった。これからは雑草と共存していくことを決めた」と、壮大な結論で締めくくられました。今後は雑草を生やしたままにし、必要に応じて草むしりをするとのこと。レポートの末尾には「今までゴメンね」と、優しい言葉が添えられました。(以下省略)」

雑草と言われている草が美しいリースに

私たちもこの夏、どれだけヒメコバンソウを抜いたことか。それでもやっぱり残っていて次週には元気な姿を見せてくれていました。

内心〈よかった!ジェノサイドでなかった!〉と胸をなでおろしました。

 

『パンデミック後の選択—教皇フランシスコ』

これは、3月27日から4月22日にかけて人類が今、取り憑かれ、苦しんでいるコロナウイルスによるパンデミックについて教皇フランシスコが言及されたり、記されたりした8つの重要な文章が収められています。「この文章集には二つの目的があります。一つは、この人類の危機から生まれうる、より良い世界を築くための方向性、手がかり、指針の提言です。二つ目は、これほどの過酷な苦しみと困惑の只中にあってすら、希望の種をまくことです。教皇はこの希望を、紛れもなく信仰においています。『神が共にいてくだされば、命は決して失われないのです』」(P.7-8 序文より)

(2020年7月22日発行  カトリック中央協議会  ¥500+税)

 


「いぶき宿通信」32

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.32 2019.7 

福島ミニバズツアー

2019年度に入り、4月からさまざまな学びの機会に恵まれています。
さくら咲く、三春の里:梅、桃、桜、春一色
三つの春が一度にやってくる三春
今年は春の満開をちょっと過ぎてから三春への旅となりました。4月25日26日と福島の現状を目のあたりに肌で感じる旅に出たのは、中学高校の同級生と同窓生など11人。
それでも「えすぺり」、大河原さんの自宅庭には桜が満開でした。

大河原桜人形劇

現場で「人形劇」を観劇した感想は、「やっぱり、現場で観るのは、東京で観るのとはちがう。
ずっとよかった!」でした。現場に立つことによる場の持つ力が語りかけてくるのだとあらためて感じました。
湯本の「古滝屋」さんに宿泊。あれから8年、湯宿での食事提供が困難な時期にあった「古滝屋」さんも夕食・朝食の提供が11月から始められていました。嬉しかったです。
次の日は、浜通を訪ねました。請け戸小学校の周りは一面除染土を詰めたフレコンバックが敷き詰められていました。何とも不気味な景色でした。道中、ここに他所から運び込むフレコンバックを積んだトラックにすれ違ったり、その後ろについたりして・・・『あ、放射能に汚染された地域にいるのだ』との実感が。トラックの運転手さんたちのことが気になりました。

請戸中間貯蔵ペースカー

富岡の警察前には昨年暮れに完成した「廃炉資料館」ができていました。
Jビレッジは見事な設備に大変身していました。
あの駐車場と前線基地だった頃の建物の姿が嘘のように。福島第一原発、第二原発への送迎バスが労働者を乗せて発着していたその場には、練習に来た小学生のサッカー少年たちを送迎するバスが。売店にはサッカーにちなんだお土産、サッカーグッズが売られていました。
請け戸の除染土フレコンバックの海原とはあまりの格差です。
ロータリーの芝生の上をロボットが行き来していました。何をしているのか?

Jビレッジロボットの芝刈り

楢葉には、『道の駅ならは』が前日にオープンしていました。
南相馬カリタス原町ベースで、復興食堂で注文したお弁当で昼食をしながら、スタッフのシスターから少しお話を伺いました。幼稚園では園児が増えているそうです。
浪江の『希望の牧場』では、たまたま吉澤さんが牛さんたちにキャベツをやっておられ、先日東京でのお話に参加していた人もいて、ご挨拶ができよかったです。

抗議の牛

東北高速道を北上し、磐越道を東に走り、国道6号線を北上、常磐高速道を南下して、福島県をほぼ1/4廻ってきました。
箱ものの復興が目立つ中で、人の少なさが、町のしずけさ・・・ひっそりさ・・・いぶきのなさが・・・妙に重たさに押しつぶされそうで、もの悲しい、うら寂しい、何とも複雑な感覚に襲われました。

 
『最後の一滴まで』
ヨーロッパの隠された水戦争
雪ノ下教会で5月4日ドキュメンタリー『最後の一滴まで』の鑑賞でした。「水道サービスは誰が担うべきなのか?」そして「水は商品なのか、人権なのか?」と問われています。
日本では2018年12月12日に水道法が「改正」されました。
世界では民営化によって生じた水問題に対して再度公営化される中で、日本では公営であった水道事業が民営化されました。逆行している日本の問題をあらためて突きつけられました。

水戦争

 

種子法廃止とタネの未来印鑰智哉さん講演
雪ノ下教会6月1日
化学肥料により土の力が失われ、土が死滅していった地球のいのちの源である土の話し。1cmの土ができるのに100年の年月を要するという話しは、除染が成される時によく聞いた話です。農業と無関係だった化学企業が農業に参入し、化学肥料・農薬をつくり、これらの企業が農業生産の在り方を支配していると。ここに種子、化学肥料、農薬の三点セットでの工業型農業が出来上がったのです。化学企業の爆弾をつくる工程がそのまま化学肥料製造に使い回されているとのこと。1996年以降は「緑の革命」遺伝子組み換え農業が始まり、戦争企業が遺伝子組み換えに参入して来たのです。
世界の4社が世界のタネの7割を独占し、そのタネは遺伝子組み換えであるという空恐ろしい実情。世界の種子市場の約7割弱、農薬の8割弱が6つの遺伝子組み換え企業が握っているという現実を学び、恐ろしくなりました。
日本では2018年4月に主要農作物種子法は廃止されました。農業ひいては「いのち」がどのようになっていくのか不安です。
飯舘村、同慶寺(相馬藩の菩提寺)、広野のバナナ、広野の綿花栽培などなど。

 

ショックだった飯館村の現状
ドキュメンタリー映画「飯舘村の母ちゃんたち、土とともに」の古居監督と一緒に、「飯舘村の母ちゃんたち」菅野栄子さん、よし子さん、そして長谷川花子さんを訪ねました。花子さんには、飯舘村を案内してもらい、忌憚のない現状を聞かせてもらいました。遠く神奈川で想像していることとのギャップ、現地に足を運び現実に触れてみないと分らないことが・・・
帰還された人たちが今、どのように前を向いて進んで行っていいのか・・・力が削がれ、見えない将来に戸惑っておられることがひしひしと伝わってきました。それでも、なんとか前を向きたいと自らを鼓舞しようとの努力が痛々しく感じられました。かける言葉を失いました。
箱ものは素晴らしく、次々と、今、これが必要なのかどうか疑われるような立派な箱もの、像などが・・・これからのメンテナンスはどうするのでしょうと。
帰還している人は???飯舘村に住民届けを出して一応は帰還のような状態になってはいても、実際には形だけの住民で夜家の電気はついていない所も。

飯館道の駅    幼稚園

(飯舘村道の駅)          (幼稚園)

聖歌ランアーの走る12号   家の前のフレコンバック

(聖火ランナーの走る     (家の前にはフレコンバック
国道12号線沿いは整備され     が囲いの中で、もぞもぞ
フレコンバックはないが)         と放射性物質を・・・)

原発事故後の人々の苦しみに寄り添っていた市の職員、当時、福島第二原発の厳しい状況の中で最悪のシナリオをくい止めていた人、被災者の僧侶として、いま自らの地元で人々のため、地域のために知恵を出し、甘くない現実の中で、日夜、奮闘され続けている姿に希望をみました。

                                        野上


「いぶき宿通信」33

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.33① 2019.9 

第一部
南の方での豪雨災害に心を痛めながら、今年は自然が本当に号涙しているかのごとく止むことのない水害に失われた日常を心に留めながら、横浜教区の5つの教会の信徒20人で福島への旅にでました。
9月2日から4日までの2泊3日の巡礼の旅でした。核事故によって失われたおだやかな日常、の悲嘆のなかにも、土とともにいのちとともに、日常を復活されようとしておられる人々に出会う旅でした。バスの乗車とともに祈りに始まり、バスから降りる前の祈りに終わる、本当に巡礼でした。
「放浪は目的なくさまよい歩くこと。巡礼は目的を持って踏みしめて歩むこと」との小笠原神父様の言葉を今も噛みしめています。

常磐道
常磐道を北に向って走りながら、景色の移り変わりがそこで生活している人々の日常をも変えるのだと感じました。
常磐道で、今までとは異なった情景に身を置くことになりました。ペースカーとかいた幕をトラックの運転台の後ろに貼付けて走っているフレコンバック運搬トラックの列。震災の年の夏の光景が重なりました。あの時はフレコンバックのトラックではなく、自衛隊のトラックの行列。パーキングエリアで一緒になった隊員に話しかけていろいろ聞いたことが昨日のように思い出されました。これらのトラックの間に挟まれての走行に複雑な思いを持ちました。いわきナンバーでしたが、いわきより南から走ってきました。北関東からなのでしょうか?どこから来てどこへ?

除染トラック

飯館村
飯館村に入り、「までい館」の前で長谷川花子さ

んにご同乗いただき、まずは昼食。原発立地の南相馬市に合併することなく、美しい自然と「までい」な生活を営む理想をかかげて、まさしく理想的な村づくりがなされていた村です。
避難解除とともに帰村が勧められ、村をこよなく愛する人、ともに生きて来た土を愛でている人々が村に戻り復活を夢みておられましたが、現実はそれはそれは厳しいものでした。真っ暗闇のトンネルの中で、希望を繋ぐことは至難の業であると痛感しました。そんな中で、土のいのちを保つために蕎麦づくりをはじめられ、「までい」に準備された手打ち蕎麦、昼食の一品一品が、暖かいいのちを届けてくれるようでした。
本当に美味しかったです。体調を崩されている店主さんが酸素ボンベを背負いながら、準備くださった食事のありがたさが身に沁みました。

蕎麦夫妻

【「までい」とは「手間ひまを惜しまず」「心をこめて」「丁寧に」「慎ましく」という「スローライフ」のこと】
飯館村は全戸の1/3が旧満州などからの引き上げで、県内でも気温が数度も低い寒冷の地で、木を切り、土地を耕し、半世紀かけて「日本一美しい村」としての麗しい里を作り上げた場所です。引き上げ者は阿武隈山系の飯館にしか土地を見つけられなかったのです。人口流出、子供も少なかったので、エンジェルプランや男性の育児休暇などもいち早く取り組んでいた村です。そして、「若妻の翼」は村の補助金40万円に自己負担10万円でヨーロッパ研修旅行に送り出したのです。添乗員もつけずに。自分たちで判断しながら周り、自主性や積極性を養う研修旅行でした。一人の自立した人間として生きていくためでした。
もう一度村を開拓し直す。戦後と同じ。20年30年後に帰って来た孫、ひ孫たちに、じいちゃん、ばあちゃんは日本一の村を復活させたと次世代に美しい村を手渡したい人々は、絶望から立ち上がる強さを持っておられます。その絶望の中に希望の光を見ているのです。「希望」は「自分のため」でなく「次世代のため」未来を見つめている中からうまれているようです。
花子さんもこの「若妻の翼」で研修旅行に行った一人です。

長谷川花子さん

原発立地地区が合併して南相馬市になる時に飯館村は原発に頼らない村づくりを目指し村のまま存続しました。原発交付金とは全く無縁だったこの小さな村が、長い時間をかけて知恵を絞り、障壁を乗り越え育てて来た「までいライフ」がたった一度の核事故(原発事故)で全てが水泡に帰したのです。事故による放射能被害がよりによって飯館村を襲い、被災への補償金が・・・それがどのように使われていくかということが・・・

本当に原発事故が壊したのは、人々が長年耕し、培って来た「日常」なのだということをいたい程痛感しました。

小高同慶寺
飯舘村から、小高の同慶寺に行きました。同慶寺は相馬藩の菩提寺として田中徳雲さんが住職として守っておられます。菩提寺なので、歴代の相馬の藩主が休んでおられるお墓が並んでいます。
田中ご住職のお話は何度聞いても心を打たれます。原発について学び、知識を持っておられたご住職は、あの大地震のあとの津波で停電になり、原発で電源喪失すればメルトダウンは避けられないと、いち早く避難を決断されました。逃げるように周りの人を誘っても、素直に逃げてくれる人はいなかったと。車に乗れる人数から、ご母堂を一人置いていかざるを得ない厳しい現実にどれほど心を痛められたことでしょうか。福井に避難され、ご住職だけが小高に戻られ、家族が離ればなれの生活。ご住職の福井と小高の往復の生活、父親のいない家族のストレスなど、限界を迎え、実家のあるいわきへ再避難されました。その時の子どもたちの抵抗を親の権威で車に乗せたことを今でも考えられるそうです。再度の引越に素足で逃げて木々の茂みにうずくまって泣きながら抵抗する子供を、謝りながら引きずり抱えて車に乗せて走ったことは、ご住職の脳裏に鮮明に蘇っているようでした。各地に散らばって避難された檀家さんたちのケアのために走り回れた距離は半端ではありません。地球7回半程にもなるとか。生きる望みを失う程の苦しみと悩みの中にある檀家さんたちに寄り添うために、まさに身を削って仕えておられる姿が神々しかったです。

同慶寺

お話を伺う回を重ねる毎にご住職のこの未曾有の災害に対してのお考えが深まり、神さま(仏さま)が私たちに与えてくださっている貴重なチャンスとして、この災害を捉えられ、自らの生活を変えるようにとの呼びかけに真摯に、具体的に向き合っておられる姿が滲み出ていました。お子さんたちは現代社会の子どもたちなので、父親のご住職の生き方、生活のありかたをまだまだ理解できない所があるのは否めない現実です。が、父の背中を見て育つ子供が大人になったとき、きっと「ア、そうだったんだ!」と分ってくれることを信じておられる信頼も伝わってきました。具体的な日常生活が自然との共存、自然の恵みを大切に生きられる徹底さに背筋が伸びました。東京ではできないかもしれないのですが、車も廃油とガソリンの併用で走っておられます。

天ぷら油

第一日目を終え、今日は原ノ町駅前のホテルに宿泊。
原ノ町駅は、相馬野馬追とマッチした駅舎。(続く)

 

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.33② 2019.9

第二部
国道6号線
昨日の余韻を心に、巡礼二日目です。
原ノ町駅前を出発して6号線を南下。帰還困難区域を通過する巡礼です。バリケードのある6号線を通るのがはじめての人が多く、車中の空気は緊張していました。シ〜〜ンと静まりかえる車中。旅人の心は様々な祈りが捧げられているようでした。8年前から手が付けられていない、人の住んでいる痕跡のない家々、人の息づかいを受けていない環境は、ぽっかりと穴があいたようでした。それでも、植物はそれぞれの営なみを続けているのがいじらしく感じられました。

バリケード

そんな道路脇では、労働者が・・・
その姿を見た私の目は点になりました。
車の窓を開けてはいけない。二輪車も、歩行も通行を禁止されている。車の停車も許されない。信号機は黄色が点滅している6号線で写真のような作業員???

6号線作業6号線作業①

 

廃炉資料館
昨年オープンした、廃炉資料館をたずねました。
映像をみながら、廃炉がどのように行なわれていくのか分りました。日頃の疑問を、説明をしてくれた女性にぶつけ、別の男性が細かな説明で補助をしてくれる場面が何度かありました。
資料館の説明の職員に問うても仕方のないでも、悶々としている疑問はやはり口をついて
出てくるのでした。「こういうコメントがあったということを、上の人に伝えてくれればいいのですよ」と女性職員をフォロー。飯舘村で線量計が二つある理由などの説明を聞いているので、素直に「あ、そうですか」と受け容れがたい状況を事故後の対応が作り上げてしまっています。素人が自分で学び、判断し、行動することの難しさを今回も感じました。「核」そのものは、自然界に存在するもので悪ではないのでしょう。しかし、人間によって間違った使い方をされてしまった「核」、分裂と不信を生じさせた「核」は、「悪」ではないでしょうか。
今回資料館で新しい体験をさせてもらえました。全面マスクでの原発労働者の話しをよく耳にしていました。あの異様な姿のマスクを何度もテレビで見ました。現物を目にしたのもはじめてでしたが、それをかぶってみたのは、勿論はじめてでした。ぴちっと密閉してマスクをかぶったわけではないのですが、呼吸は以外と楽でした。旧式のものと新式のものが展示されていました。改良されて新しいものは軽くなっていました。

全面マスク

第一原発の敷地の模型が作られていて、その前で説明を受けました。

廃炉説明

ボルト式の貯水タンクを溶接型のタンクに。中の汚染水を移し替えているのですが、最後は作業員の手作業。線量は作業をしても問題ないほどにアルプスで核物質を除去してからの水といわれても、う〜〜ん??という感じでした。
とにかく、全てが未知の世界で、今後どのような健康障害が出て来るかも分らないわけです。
私が気になっているのは、3月12日からのあのとき何も知らされないまま、日常生活を送っていた人たちのことです。あの時に、放射能が流れ、雨や雪で地に落ちた地域も含めて、半径ではなく、そこがどこかはスピーディのデーターを見れば分る筈です。放射能の影響を受けた地域にいた全ての人に、そして原発労働者、除染労働者に「被曝者手帳」のようなものが発行されるべきではないかと思っています。データーはあるのですから、誠意を尽くしていのちを守っていくのが尊厳ある人の在り方ではと。「直ちに健康に影響はない」とすまされていること自体に不信を募らせるのです。あの時の被曝がどうだったか。子供たちの甲状腺癌が増加しているというのは、あの時の被曝の影響ではと思うのは常識的な思考経路から導きだされるものではないでしょうか。原因結果が分らないということも、謙遜に受け止めて、明確な原因説明ができないから、なかったことにするのは、大きな?です。今こそ、人は自然と神の前に謙虚になるチャンスを与えられているのだと思いました。

Jビレッジ
事故収束作業の前線基地であった時から、何度も訪れていたJビレッジです。
すっかり、サッカーのピッチに変身しているかつての前線基地は、あの時のことを知らなければ、ここがどんなに緊張した場所であったかということを想像することができないと思われました。大学生がピッチで大会をしていました。
Jビレッジの中も、ピッチも放射線量は管理されていました。が・・・

Jビレッジ

福島第一原発までは20キロ。第二原発までは10キロしかないのです。今後事故が起こらないとも限らないのですが・・・日本中、海岸線のいたるところに原発はあるのです。その意味では、どこに住んでいても安全の保証はないのですけれど。
Jビレッジで昼食。

広野町振興公社「バナナ農園」
広野町も核(原発)事故後全住民が避難を余儀なくされました。が、他の地域と比べて線量は低かったこともあり、いち早く帰還を決断し、お米の栽培も早くから取り組まれました。双葉地域の新たな特産品としてバナナ栽培が町100%出資で始められました。原発の影響で使われていなかった800平方メートルの園芸用ハウスを利用しての栽培です。社長は町役場に勤務していた人で、事故後の住民の苦悩、悲しみに丁寧に関わって来られた人です。「地獄をみました」との言葉は、とても重く、今も私のこころの底に沈んでいます。「人は追いつめられると、狂気になれるのだ」という言葉とともに。それほどの苦悩をともにされたことから、住民が生きていくことのできる術をなんとか作り上げようと努力されていることが伝わってきました。
住民の夢、希望、前を向いて挑戦して生きる生き甲斐づくりを目指されていました。

バナナ

あと1ヶ月遅く訪ねていれば、バナナの収穫。国産バナナを購入できたのに。残念でした。
今のところ1本650円の超高級品です。

バナナ測定
(続く)

 

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2019 No.33③ 2019.9

第三部
「NPO法人わいわいプロジェクト」
広野町綿花畑
雨の降りしきる中、広野町内をバスのなかから視察しました。バスを降りることができなかったことは残念でした。以下の写真は下見に行った時のものです。
広野町は、原発(核)事故の前日、津波で破壊されていました。津波減災のために、跡地を防災緑地として整備されていました。そこには7万本の木が植樹され、お花が植えられていました。

広野防災緑地広野堤防より

広野町の沿岸部に高さ10・7メートルに嵩上げした県道と防災緑地。海岸沿いの8・7メートルの防潮堤と合わせ、津波被害を軽減する多重防御の役割が期待される。同町を襲った津波は約9メートルとされ、高さ6・2メートルの防潮堤が損壊(ネットより)

綿花畑

塩害に侵された耕作放棄地に土地の荒廃を防ぐ意味も含め、塩害に強い「コットン」栽培がされています。ここで作付けされているのはオーガニックコットン。このコットン畑にも自然の仲間が闇に乗じて訪れた足跡が残されていました。また、広野町には260haの田んぼがあり、そのうち160haが再開されていますが、田んぼアートもつくられていました。

広坊や

「とんぼのめがねは、ま〜〜るいめがね♩♪」
という童謡をご存知と思います。これは広野町の額田医師が往診に出かけた際に、子どもたちがとんぼと遊んでいた姿を見て作詞したものなのです。それで、広坊はとんぼなのです。
広野町の拠点づくりを目指してのプロジェクトです。広野町は町を復活させるためには次世代の人づくりが大切なので、教育に力を入れ、「広野未来学園」をつくり、生徒の半分は地元から、半分は全国から集まっています。寮も立派な寮が準備され、体育館もスポーツ独自のものが別に準備されています。町として「子ども園」をつくり、民間に委託しています。住民が夢と生き甲斐をもって前を向くことのできる環境づくりに取り組んでおられることを知りました。
また、この学びのために案内をしてくださった代表は、実はあの歴史的な時に第二原発で働いておられた方でした。第二原発の話しはあまり耳にする機会がありませんでした。が、大変だったということは風に乗って伝わってきましたが・・・実際にお話を伺い、危機一髪だったということが分りました。あの時、身の危険を犯して第二原発を冷温停止に持っていってくださった方々に対してどれだけ感謝をしてもし尽くせないと思いました。あの冷温停止に失敗していたら、今頃、私たちはどこにいるのでしょうか?関東全域、人の住むことができない場所になっていたということです。
第二原発についても、もっと事実を伺いたいと思いました。
この後一路、湯本、元禄からの老舗温泉宿「古滝屋」へ。従業員130人を抱えるこの老舗旅館も実は震災の大きな影響を受け、大きな被災で廃業を真剣に考えなければならないくらいの所まで追い込まれ、残ってくれた8人の従業員と社長、若女将で、ここまで繋いでくれたご先祖のことを思うと、ここで廃業はできないと踏ん張られたとのことでした。厨房が使用不能な程のダメージを受けたけれども、幸いに温泉の方は大丈夫だったので、取りあえず、素泊まりで営業をされていました。
そんな中でも、社長さんはこの未曾有の震災で一番困難な状況にいるのは、障害を持っている子どもたちでしょうとの思いから「ふよう土」という団体を立ち上げ、活動をはじめておられたのです。大人が子どものふよう土となって、育てていかなければいけないというコンセプトです。その考えに魅せられて、「いぶき宿」は、この宿で泊めって頂くことにしました。学生ボランティアのためには、建築科の学生たちの設計でプライバシーが保てる、蚕ベット(?)のようなスペースを、使っていない大広間に設置し、低額でボランティア学生に宿泊を提供するということもされていました。今回は夕食を提供してもらえました。厨房が整備されてシェフにも戻ってもらえたのが昨年の11月、7年半すぎていました。その間のご苦労は計り知れないと思います。

古滝屋で

 

いわき教会でのミサ
巡礼のミサをいわきの教会で捧げました。なんと、仙台教区の神学生が来ていました。小笠原神父様に神学校で教えてもらったとか。嬉しいサプライズでした。また、彼自身の震災の体験を分かち合ってもらえたのも嬉しかったです。

いわきオリーブ園
「いわきオリーブプロジェクト」のオリーブ園に行きました。

オリーブ園看板オリーヴ

NPOいわきオリーブプロジェクトが目指すもの
特定非営利活動法人いわきオリーブプロジェクトは、オリーブ研究活動を通して地域や社会福祉への
貢献に関する事業を行い、住みよい地域環境作り、地域福祉への理解促進に寄与することを目的(定款、第3条)とし、目的を達成するため次の事業を行う。
①地域農業支援および農業生産事業
②農業体験の企画・運営
③農村地域振興の企画・調査・研究
④就農支援活動
⑤地域の観光名所の情報提供
⑥観光地同士の相互協力や連携、交流の活動
⑦この法人の目的を達成するために必要な事業
(ネットより)
お話を伺い、ボランティアとの連係、子どもたち、地域にも開かれている活動、そして、オリーブを通して日本全国と繋がることを目指しておられることに感銘しました。オリーブ加工品の品々を求めました。はじめて「オリーブ茶」を飲んでみましたが、しっとりと美味しかったです。また、オリーブは雌雄別木であり、雌雄で植えなければ実はできないこと、空気受粉であることも学びました。このオリーブ園には、種類の違うオリーブが植えられていました。
中野区の地域密着タウン情報誌「おこのみっくす」がいわきのオリーブを支援する「オリーブ羽ばたきの会」を立ち上げいわきとの交流を深められ、2016年4月に中野で「オリーブの祭典」を企画。JR中野の駅長さん発案の鉄路で繋ぐ「オリーブ列車」が4月16日に走りました。この日を記念して9時9分いわき発の常磐列車にはオリーブ特別ヘッドがつけられました。
松戸、上野、東京、新宿、そして中野のそれぞれの駅で駅長さんにオリーブの苗木を贈呈していく交流列車でした。オリーブがいわきと関東を結んだ列車は、これからの繋がりのスタートを切ったオリーブの旅だったのでしょう。

オリーブ園

今回の旅は巡礼の旅。本当にこの巡礼の旅は、3日間で終わるのではなく、これからずっと続いていく旅であると感じています。
感謝をこめて(野上)


「いぶき宿通信」No.31

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.31 2019.3

8年目の3月11日、3月15日
 東日本大震災、福島第一原発核事故から8年。
今年も3月11日、15日がめぐってきました。
この8年の間、変わったこと、変わらないこと、そして、しんどさが増していることなど・・・
福島から距離的に離れれば離れる程、何だか原発事故に関しては忘れ去られるだけでなく、あたかも「そんなことがあったのね」日常的にはそんなことなかったかのような空気が漂っているように感じられます。
 そんな中、古都鎌倉では2011年4月11日に諸宗教による追悼慰霊、祈りの集いが2012年からは3月11日に途切れることなく続けられて来ています。2011年4月11日の第1回は鎌倉鶴岡八幡宮で開催されました。
そのときの印象は今でも鮮明に心身にしみ込んでいます。八幡宮の舞殿に各宗派の宗教者代表が昇りそれぞれの祈りを捧げたのです。神主さん、僧侶、カトリック司祭、プロテスタント牧師と。鎌倉在住のそれぞれの宗派の僧侶の方々がご一緒に〈般若心経〉を読経され、これに参加者が唱和した、あの肚に響き渡る読経が今でも身体に木霊しています。その後、宗教毎にグループをつくり由比ケ浜まで祈りのラリーをして、浜にも祭壇を設けて海に向って、それぞれの宗教が祈ったこと。浜での祈りの最中に、突然、参加者の携帯にけたたましく「ヒューー、ヒューー」と警報がはいったのです。同時に砂浜が揺れました。大きな地震でした。一瞬騒然としましたが津波がないことを確認し、祈りが続けられました。この体験は、3月11日の大震災の1か月後であっただけに、強烈な印象として私のうちに生きています。
『東日本大震災 追善供養 復興祈願祭
「趣意書」
鶴岡八幡宮      宮司  吉田 茂穂
鎌倉市仏教会会長   覚園寺 仲田 昌弘
キリスト教諸教会   司祭  山口 道孝
 3月11日の東日本大震災は、我が国にとって正に未曾有の大災害となりました。多くの尊い命が失われた上、大津波、加えて原子力発電所

の事故により避難を余儀なくされた被災者の方々は、現在数十万人にも及んでおり、日本は大変な国難に直面しています。
 かつて、鎌倉に幕府がおかれていた時代、国難に際して社寺がまとまり、乗り越えるための御祈願が執り行われておりました。いま、歴史を経てふたたび、神道、仏教、キリスト教の宗旨・宗派を超えて合同祈願を執り行うことに致しました。
 この大地震のちょうど一年前、鶴岡八幡宮の御神木、樹齢1000年の大銀杏が突然倒伏しました。大変悲しい出来事でしたが、日本全国からの励ましの声と共に、今は残された根元から多くの新芽が未来に向かって力強く成長を続けています。
 犠牲者を哀悼し、日常生活を奪われている被災者の皆様に思いを寄せ、鎌倉中の宗教者たちが心を一つに祈りを捧げ、被災地のみならず、日本中に「復興の芽」が力強く育つことを切に願っております。お時間の許す限りご参列下されば幸いです。
 鶴岡八幡宮舞殿での祈願祭終了後、建長寺や円覚寺などの修行僧やキリスト教会の神父、牧師、シスターが、義援金の寄付を呼びかけながら、小町通りと若宮大路を歩き、由比ガ浜に向かった。集まった義援金は、東日本大震災追善供養復興祈願祭参加者一同として日本赤十字社に寄付された。』
『舞殿での祈願祭には約1万人の市民も参列し、舞殿前に設けられた焼香台で焼香した。舞殿では海が穏やかになることを祈願して「浦安の舞」が奉納された。』
(鎌倉で3宗教合同の復興祈願祭—東日本大震災⑰より)
 今年はカトリック雪ノ下教会で開催されました。(www.praykamakura.org鎌倉宗教者会議で見ることができます。)

『いのちの光3・15』
 3月15日に原町教会で大震災、原発事故(核事故)8年目の追悼ミサ、講演会が開催されました。久しぶりに常磐線で福島まで行きました。まだ全線開通していませんので、一部代行バスで6号線を走りました。6号線大熊町、双葉町、第一原発が近づくにつれ、バスの中での線量計の数値は一寸意外な程にあがってきました。6号線を車で走れるようになった直後以外は、あまり驚かなかった数値ですが、今回ばかりは、正直何がおこっているのかしら?と様々な想像が頭の中を駆け巡りました。代行バスに乗ると車掌さんからは、「帰還困難区域を通りますので、窓は決して明けないでください」との注意事項もありました。6号線を通る時には窓を開けてはいけないことは今までとかわりません。が、働いている人はいるのです。
 同慶寺のご住職、田中徳雲さんの講演からいろいろなことを学びました。時間が短く充分に語り尽くされなかったことは残念でしたが「『原発事故後の福島で生きる』〜7世代先の子どもたちのために〜」と言う小冊子をくださり、そこから更に何をしたらいいのか、ビジョンをもらえました。同慶寺は、相馬藩の菩提寺であり、相馬藩は源頼朝から領地をうけています。
『一番最初の祖先は、平安時代の相馬小次郎将門。あなたがたは平将門(たいらのまさかど)というけれど、将門は相馬の姓を名乗っていたんですよ。』『有名な「相馬野馬追(のまおい)」は1千年以上続いている行事だけれど、もともとは将門が始めた軍事演習でした。江戸時代も神事として続けられ、明治以降は相馬家が東京へ移ってしまったから、当主不在で行われてきた。』『第2次大戦の最後の年、相馬野馬追は中止のはずでした。でも、その人は先祖代々ずっと続けている伝統を途絶えさせるわけにいかないと思い、一人でも決行しようと鎧(よろい)を着て、家族に別れを告げ、神社へ向かった。すると、大勢の人が同じ思いで集まっていたそうです。米軍の飛行機が飛んでいる中、決死の 覚悟で行われた相馬野馬追――。命がけで1千年以上の伝統を守ってきた、という話でした。相馬野馬追は、彼らの魂であり、宗教のようなものだとわかりました。』(相馬家33代当主の話し)
 16日は仙台教会で小児科、精神科医の北川恵以子さんの講演会でした。北川さんは原発事故後毎月福島に通い、子どもたちの健康(心身)の相談を受けて来られ、その経験からお話しくださいました。
 2月の末には「正義と平和協議会全国担当者会議」も行なわれなした。
 2月の脱原発グループでの話し、15日の田中徳雲僧侶の話し、そして北川さんの話しにきせずして同じ提案がなされたことが大きなインパクトでした。共通してはなされたことは、「保養」でした。「原発事故後を生きる人々」にとって保養がどれほど大切であり、必要なことかが理解できました。どのような保養であれば、子どもたちにとって生きる力をつけていくものになるのかと、具体的にはご住職の生き方、そして活動の紹介から大きな示唆が与えられました。ご住職自身の保養に行かれた体験の分かち合いも説得力がありました。
 「自分はどう生きていくかを問われている。それが、今回の福島の事故。それに尽きる」「国の政策は・・・もっと闇になって行くよう。8年経っても。・・・明けない夜はないから必ず朝がくる。私たち自身が光になって行く。光を求めていました。それでもいいのかもしれないけど、自らが光になって行くということ。その為に現実の生活と求める生活とをどういうふうに擦り合わせて行くかという、今そういう段階。強いていうなら、芋虫から蝶になる。地球を食いつぶしてしまう芋虫から蝶になる。蜜を吸い、受粉を助けて行く蝶になる。今はさなぎの時期。日常のできることからしていく。蝶々が飛ぶ練習のとき、飛ぶためには沢山持っていたら飛べない・・・手放していくことが大切」(田中徳雲住職のはなし)ご住職が話された保養は、福島のひとたちだけに必要なのではなく、病んでいる日本社会に生活している子供たち、大人たち皆に、日本だけでなく、痛めつけられている地球の家にすんでいる人々皆に必要な、本当の人となるため、人を取り戻すための保養なのだと納得しました。


「いぶき宿通信」No.30

小浜原発僧侶「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.30 2018.12

主の御降誕と新年のお喜びを申し上げます

   本年のご支援に心から感謝申し上げます。来年も宜しくお願い致します。

鎌倉市民クリスマスパレード
11月8日(土):キリスト教/プロテスタント、カトリック、仏教の僧侶も参加しての主の降誕をつげ、平和を祈願するパレードでした。祈りの集いは雪の下教会の敷地道路脇で行なわれたので、若宮大通りの観光客、鎌倉八幡宮への段葛を歩いている人たちも何事かと、車も徐行しながらこのイベントを覗いていたり・・・
多くの人の目に触れました。

市民クリスマス
平和の光を鎌倉の地から

お坊さん、牧師さん、神父さんたちが壇上に並んで祈っている姿を、若者は「聖(セント)にいさん(仏陀とキリストの漫画)、みたい」とコメントしていたのが印象的でした。

聖にいさん
宗教者が一つとなって平和のために

また、段葛で止まってみている人は、積極的にプログラムを受け取ってくれたり、賛美歌を歌っているときなど、一緒に歌いながら段葛を歩いている人も見られたり、その人々の顔は心なしか緩みほころんでいるようでした。

共に生きる地球家族
第40回日本カトリック正義と平和全国集会が、11月23日(金)24日(土)と名古屋で行なわれました。16の分科会に分れ、日本社会の様々な課題を取り上げた分科会でした。
どれもじっくりと耳を傾けたいものばかりですが、1点突破全面展開と個人的には、分科会「美しい若狭を守ろう〜世界一原発密集地域から」に参加しました。

小浜原発僧侶

ここでの講演者は50年間一貫して原発拒否し続け、小浜市の原発設置を拒否し続けた運動に取り組んで来られた僧侶でした。
中嶌哲演さんは小浜市明通寺の住職です。ご住職はガリ版手刷りのちらし「鈴声」を一軒一軒托鉢しながら配り続けられたのです。それには原子力発電がどのようなものかが書かれ、若狭が原発銀座となるように狙い撃ちされていることも・・・2012年には大飯原発再稼働に反対してハンガーストライキもされ、2014年には福井地裁で勝訴判決を勝ち取っています。が、
大飯原発3号機、4号機について、地元の福井県おおい町議会は、再稼働を容認することを決め、町長に報告しました。これを受けて、町長は近く再稼働を認める町としての意向を福井県知事に伝えるとみられています。
政府が求めていた地元同意のうち、初めて再稼働を容認する判断を下したおおい町議会。
時岡町長は近く、町としての意向を西川県知事に伝える見通しです。(2012.5.14 TBS Newsネットより)
2018年3月14日に3号機が再稼働しました。小浜住民は原発立地地元ではないということで、小浜市民の反対は却下されました。
ちなみに大飯町の人口は8,351人、世帯数3,183小浜市の人口は29,398人世帯数11,987
小浜市も放射能の影響をもろに受ける地域であるにもかかわらず・・・何ともおかしな理屈。

朗読劇 線量計が鳴る 〜元原発技師のモノローグ〜

脚本・出演中村敦夫の朗読劇が12月16日に鎌倉生涯学習センタ—ホールで行なわれました。2時間の朗読劇は迫力に富み、原発の全貌が見渡せ、点での情報が線になり、面になり、立体として見えてくるようなものでした。
「右を向けと言われたら右を向き、左と言われれば左を向き、死ねと言われたら死ぬと。俺はもう、そんな日本人にはなりたくねえんだ。」

中村敦夫

「起きてしまえば、原発事故は戦争に匹敵する巨大なテーマである。正面から取り組まなければ、表現者としての人生は完結しない。」
原発に関して「一から学び直し、問題全体を血肉で理解する必要を感じた。」血肉で理解するとはどういうことなのだろうとちらしに書かれた中村さんの言葉が心をついてきました。今の福島の姿だけでなく、今の姿になる越かたを掘り下げ、チェルノブイリを訪ねて、これからの福島の姿を捜した中村さんの原発に正に、正面から向き合っている姿が朗読劇の中からもビンビンと伝わってきました。
舞台のスクリーンには必要に応じて資料が映しだされました。データーを読み込み、出された事実とその背後にあるものをみすえて脚本がつくられ、朗読がすすめられて行きました。ここに、この朗読劇が事実だけでなく、真実を追究していることが理解できました。
「マスコミは大スポンサーである電力会社に忖度し、反原発の言論を神経質にチェックする。日本は、『報道の自由』世界ランキングで、70何位と言う不名誉な評価を受けている。まさに、報道統制国家である。・・・
この境遇の中で、表現者が『真実』を披露するのは可成り困難である。・・・私は複雑な情報を整理し、材料を取捨選択し、原発の抱える本質的な問題と構造が誰にでも分りやすく見えるような作品を書こうと決意した。・・・私は、原発と言う巨大テーマに、素手で立ち向かうことになった。」(『線量計が鳴る』中村敦夫P.6)
78才にもなられている中村さんは、2時間の朗読劇を全身全霊で立ったまま演じておられました。気魄を感じました。
「ジャーナリストにとって大事なことは、単なる事実報道ではなく事実に基づいた真実を伝えることだと思います。いまのマスコミも確かに事実は伝えています。福島原発事故の際の政府や東電の発表も一つの事実ですから。しかし彼等が言うことの裏の面やまだ明らかにされていない事実があるかもしれないことに注意を払い、それを掘り起こさなければなりません。・・・どこにもこびず、焦らず、数十年先を見通す目を持って、時間をかけて時代を撮り続けることの大切さが、この年になって分ったというのが今の実感ですね。」(『消される原発労働をおいかけて』樋口健二)撮影50年炭坑労働者、四日市公害、水俣、そして原発労働者の写真を撮り始めて38年。とても説得力のある言葉です。この二人がどこか繋がっているように感じました。

「この本の二作は、プロ、アマチュアを問わず、原発ゼロを目指す人々によって、どんどん上演されることが作者のねがいである。」(同上p.7中村敦夫)
ありがたいお言葉です!プロ、アマチュア問わず、脚本を使っても良いと言う・・・

                                    野上幸恵記


「いぶき宿通信」No.29

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.29 2018.10

秋刀魚パーティー
大船渡でボランティアをしていた私たちは、秋になるとあの秋刀魚が思い出されます。大船渡で水揚げされた秋刀魚の美味しかったこと!
魚屋さんの店先で、包丁さばきに見入っていたことが懐かしく思い出されます。
秋刀魚の刺身が美しい包丁さばきで、見事に皿に並べられて行くのを感嘆しながら眺めていました。あのおいしい秋刀魚を内陸の農家の人たちに味わってもらいたいと、大船渡から送ってもらい秋刀魚パーティーをしました。
集まったのは、私たち「いぶき宿」と関わりを持っている人たち。「えすぺり」の有機農業の大河原さん、荏胡麻の渡邊さん、有機農業のために移住された稲福さん、有機農業しながら、加工しておられる村上さん、有機食材を加工しておられる「ままりん」さん親子、そして、「えすぺり」の食堂をされている大河原さん若夫妻と、大河原海さんと一緒に「堀越ファーム」を立ち上げられたファームの社長さん。
堀越地区の農業を引き継ぐ、たった二人の若手農業者です。

秋刀魚パーティー②

荏胡麻の渡邊さん、10月18日(日)の
テレビにでます。どのチャンネルかは、地方によって違うと思いますので、

チェックしてください。また、11月11日「朝日新聞」サンデー版でもとりあげられます。
是非みてください!

「いつもは1尾なのに、今日は2尾もたべていいんですか?」うれしそうな笑顔が皆さんの顔に広がり、その笑顔が心なしか、都会では久しく出会えないとても素直な、純な笑顔だったことが印象的で、これを書いている今も思い浮かんでくる程でした。
「堀越ファーム」は、堀越地区の耕作放棄地や後継者のいない農地を守るために農業を会社組織にして、いのちの大地を継承して行くために立ち上げられたのです。地域に二人しかいない後継者が、一緒に頑張ることができるために親たちの代の農業従事者が二人を農業指導をし
ながら支えています。次の世代に「いのちの大地」を手渡して行き、いのちの源を人々に届ける道を断たないための取り組みです。そんな彼等と共に歩むことを許されている私たちは本当に恵まれた者だと思いました。
このメンバーが一同に集まったのは初めてだったようです。これをきっかけに同じ志をもって食物を作っている人たちが、コラボできればと話し合いがなされていることをみて、「あ、よかった!秋刀魚パーティーが皆さんの繋がりをもう一歩深める、広がりを持たせるきっかけになったのかもしれない」と感慨深かったです。
【堀越地区】

堀越2050

この立て看は、大河原さんの自宅前、かぼちゃ小屋の裏の堀越南小学校の子どもたちが立てたものでした。そして後ろに見える建物は大河原さんの自宅です。
錦糸かぼちゃ(そうめんかぼちゃ)ジャム
今回は、福福堂さんに加工をお願いしている「錦糸かぼちゃジャム」のラベル貼りも作業の一つでした。出来上がったジャムに一つ一つラベルを貼りながら、育ててくださった大河原さん、加工してくださった稲福さん、そして寄附購入してくださり味わってくださる方々を繋げるジャムなんだなとの思いをかみしめながらの作業でした。

ラベルはり

早朝の畑
次の日朝早く、畑にいきました。秋刀魚パーティーには新米でのおにぎりが作られる筈だったのです!が残念なことにお米の脱穀ができなかったのです。というのも農業は気候に大きく左右されます。はさがけしてある稲が渇いていないと脱穀できません。今日はお天気、明日にでも脱穀と思っていると次の日には雨、渇いては濡れがこのところ続いていたのです。

稲のはさがけ

毎月大河原さんの野菜を仕入れて販売してくれているのは東京大森の支援グループです。
そこへ送る野菜を収穫に行きました。
朝穫りの新鮮な野菜を送るためです。
「これ、人参!」
「ここ一面、人参を植えたんですよ。今年は沢山の種を蒔いたんですけど、でも、みてください!このほんの少しの所だけそだっているでしょう!あちらはもう凡て掘り起こしてしまったんです。草取りが追いつかなくて、抜いても抜いても、雑草が生い茂って。雑草を抜くときに少し大きく育っていれば次の雑草抜きまで負けないんですけれど、そうでなければそだたないんです。相談して、あちらはみな、耕耘機で掘り返してしまったんです。淋しいですね。」雑草に負けずに育ったのはほんの少し。本当にさびしいですし、かなしいです。『草取りに来れれば・・・』と思っても、たまの草取りではだめです。家庭菜園とは違う農業の厳しさを
垣間みた思いです。

残念な人参

枝豆は?「これも少し送れるかしら?どれだけいいものが取れるか分らないけれど・・・」そう、「秘伝」と呼ばれる枝豆(私たちが「だだちゃ豆」呼んでいる)はとてもおいしい枝豆です。が、今年の夏のあの異常気候のせいで、実の入りが本当に悪いです。ふっくらとしっかり入っている実は少なく、全く実のないもの、一粒しかない鞘、鞘に実はあっても、やせ細っているもの、「あ〜ぁ、あのふっくらとした枝豆はどこ???」

実入りの悪い枝豆

農業は本当に厳しい作業!気候に左右される、自らの思い通りにも、計画通りにもいかない事だらけ。思わぬ出来事にも、打撃にも、やわらかく対処して大自然の営みにあわせて行く生き方から、本当の「いのちへの優しさ」が溢れてくるのだと納得しました。     野上記


「いぶき宿通信」No.28

「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.28 2018.8

仙台教区サポート会議
8月24日、福島市野田町教会で東日本大震災・福島第一原発事故から7年間の活動を振返り8年目を迎えるにあたり、活動を通して見えている現状、問題、今後の課題について福島県内の小教区で活動を継続している人たちの意見交換がなされました。
All Japanとして、大震災直後から日本のカトリック教会は一丸となって復興支援に取り組んできました。今回の会議は福島の活動について、現場で活動している人から、福島の現状、問題、課題を聴き、8年目を迎える中で、今後の取り組みを考える素材集めだったのでしょうか。
司教団の復興支援担当司教、当地の仙台司教、3教会管区の復興支援責任者の司教(東京出席、大阪と長崎欠席)カリタスジャパンの秘書、司教団仙台教区支援担当補佐、同事務局、全ベースの参加者などが参加していました。
多重な問題が複雑に絡み合った中での活動は年限を経るにつれて難しくなっています。
7年という時間はそれぞれがそれだけ年を取るということです。子どもにとっては成長するということ。当時0才だった乳児は小学校に入り、90才前半だった人は100才を越え、鬼籍に入られた方も多いです。高齢者二人で支え合っていた人の中には一人になった人も。
教皇フランシスコの言葉「現実こそが神の場である。今この時に生きることを大切にしたい」が思い出されました。現実は過去の出来事ではなく、それを背景にした今、それぞれの個人、地域社会、・・・が7年間の歴史(今の連続)を背負っての現実であることを思いました。真摯な想いに背筋が伸び、その現実の前に頭が垂れるようでした。

さんさんバザー@えすぺり
8月25日、「えすぺり」での「さんさんバザー」も10回目を迎えました。原発事故に伴い、地域で農業をしていた人たちはいのちの大地を放射能で汚され、汚染された大地からの放射能が農作物に移行しないように様々な手立てをとり続けながら、農作物の放射線量を一つ一つ測定した日々。出荷停止となり、希望を失い、心身のバランスも崩れ、自ら死を選んだ人も一人二人ではありませんでした。出荷可能なところまで漕ぎ着けても、今度は買ってもらえない日々が続いていたのです。
地域の農家さんと一緒にしていた直売所も閉鎖に追い込まれ、暗〜〜い容姿のお仲間、仲間と一緒に再度、希望を見つける為に仲間の農家さんが農作物を並べることのできる「えすぺり」(エスペラント語で希望)を立ち上げ、そこが人々の集まる場となることを夢みられて大きな借金をかかえての素人の商売の出発を決断されたのは大河原さんご夫妻でした。言葉には尽くせない苦労と眠れない日々が続いたことでした。
その大河原さんに出会えた私たちは、とても感謝しています。私たち「いぶき宿」はいのちのいぶきが出会い、場を共有し、いのちの交流をもち、いのちを育て育むことを夢みています。
その夢が今回の「さんさんバザー」で、目の前にあらわれたようでした。もちろん、今までもこの夢は「えすぺり」で、その時その時に実現していました。が、今回のバザーでは、「神さまの粋なお計らい」に出会った強い印象を持ったのです。「えすぺり」がいのちの様々な側面の出会いの場を提供し、その場を共有している人がいのちを豊かに育てているという実感をもったのです。
最初に出会った頃の「えすぺり」に作物を納入されている農家さんの顔と、今の農家さんの顔は、全くちがいます。希望のなかった顔に希望の光がともり、明るいお顔になり、かかわる人にも希望の喜びを伝えておられるようです。
そして、新しい商品を開発しておられる前向きな姿勢に「希望」を感じました。
そんな場は、絵画展、着物リフォーム展、ライブ、人業劇など、実に様々な人々の文化交流の場でもあります。また、地域の人々の交流として夜のイベント:うぬぼれ文化祭(大人の文化祭)/自分が今嵌まっていること、やっていることの発表会(演奏であったり、朗読であったり・・・)/が開催されて、和気あいあいとそれぞれの別の顔が自己紹介され、関わりを深めておられます。
さて、今回のさんさんバザーでの詰め放題に出されていたのは、枝豆とミニトマトでした。人だかりが・・・覗いてみると、枝豆の詰め放題。あっという間に完売でした。

詰め放題         錦糸かぼちゃ

(詰め放題)                           (錦糸かぼちゃジャムになるよ!)
今回もアロマトリートメントを持って行きました。お顔なじみになっている方もあり、また会えるのがうれしく、楽しみな時でもあります。
「今日はしてもらいたいから、これをもって行って差し上げる」と、ご自分でつくられたおとぎり草の「虫さされ」にいい自然薬を持って来てくださいました。うれしかったです!
お店を出しておられる方々は、お客さんのアロマトリートメントが先と思っておられるので、いつも遠慮がちです。でも、今回は私たちが3人いて何となくゆったりしていたので、イベントが終わってから、次々とお願いできますか?と来てくださり、夕方の6時までトリートメントを提供できました。「あ〜〜あ、今までこのゆったり感が私たちになかったのかな」と反省至極でした。このゆったり感が私たちの中に醸し出されたのは、ひょっとして今日のお二人との出会いかもしれないと思いました。
お一人は、72才の陶芸家、日下部正和さんです。「えすぺり」に入って来られた時、おみ足の悪いことに気づきました。お声かけしてトリートメントをして差し上げたいなと思って、呼び止めました。

ハンドトリートメント               杯

(トリートメント)                               (日下部さんの焼き物)
何か持っていらっしゃる方だなとの直感が働きました。にこっとして「お願いしようかな」と素直に受けてくださった姿勢に、素直な方だなと思いました。お話をうかがいながら、世界の各地に「陶器の焼釜」を作っておられる陶芸家ということが分り、陶器の話しに花が咲き、油滴天目の話しで盛り上がっていました。トリートメントが終わり、「一寸家にいってとって来ます」といって、私たちに油滴天目の杯(ちょっとわけあり)を一つづつプレゼントしてくださいました。また、ご自分が大病で余命3ヶ月と言われてから、書かれたお地蔵さんの顔(墨絵)もプレゼントしてくださり、来年の三春の時に工房をお訪ねする約束をしました。
そしてもうお一人は、サックス奏者の坪山健一さんでした。大変多くのレパートリーの中から、お客さんのリクエストに応えて演奏してくださいました。ソプラノサックス、アルトサックスとリクエストに応じて代えての演奏です。
久しぶりのライブでした。サックス演奏があったせいでしょうか、お客さんが多かったです。また、男性もたくさん来てくださっていたのが印象に残っています。懐かしい曲目が流れ、トリートメントの流れも音楽的になっていました。心地よい空気がみなぎっていました。そして、何とこのサックス奏者坪山さんは高山右近の列福式の音楽を作曲された方だということが話している中で分りました。私たち3人がシスターだの修道院だのとの言葉を発していたのを小耳に挟まれ、ご自分もカトリックだと、同じ信仰の繋がりが一気に距離を縮めました。

サックス演奏         教皇ことば

(サックス演奏)        (日下部さんの墨絵)
「一般社団法人(非営利)いぶき宿(じゅく)」通信2018 No.28 2018.8